僕はそれでも彼女と添い遂げるために。
崩壊した世界を見届けるために。
交わした約束を守るために。
外では祭が行われている、天気のいい日々が続いた。
図書館の本は片っ端から読んだ。関係のありそうな本も、なさそうな本も全て読んだ。本屋だって覗いたし、占い師のとこにも行った。街中をくまなく探したけれど。
手がかりになりそうなものは一つもなかった。やはり、この世界には何もないのだろうか。
記憶を取り戻してから、三日が過ぎていた。
「お嬢様、少し休んではいかがですか」
部屋で本の山に埋もれている僕を見て、ルナリアが声をかけてくれた。
「うん、でも、もう少しだから」
言いながら、今読んでいる本を読み進める。机にカップが置かれて、お茶を注ぐ音が耳についた。
「何か……手がかりはありましたか?」
紅茶の香りと共に、ルナリアの言葉がかけられる。
ついでに言えば、読んでいた本をルナリアにとられたぐらい。
ルナリアは、何かをしながらの他ごとが嫌いだ。何度か注意を受けたが、気に留めることはなかった。
「あ……」
多分怒っている。顔には出ていないが、きっとそうだ。僕からとりあげた本を難しい顔をして見ている。
おとなしく休憩させてもらおう。
「少しぐらい、休まないとダメですよ」
ルナリアが本を閉じて、テーブルの上に置いた。
「うん、ごめんねルナリア」
返事と謝罪を絡ませて、カップをとる。
「……早く、見つかるといいですね」
少し悲しそうに彼女は言う。
視線は窓の外、遥か遠いどこかを見ているようだった。
あの後僕は、二人に全てを話した。
包み隠さず正直に全部。
ハイネのことは勿論、僕の身分のことも、カムパネルラのことも。
最初はまるで信じられないといった様子だったが、二人は信じてくれた。そして僕が向こうに戻る方法を探すのを手伝ってくれるとまで言ってくれた。
意外だった。
誰も信じてくれそうにない、そんな夢物語のような話を二人は信じてくれたのだ。
エンリッヒは仕事柄、たくさんの人と関わるらしいので、そちらをあたってくれているらしい。ルナリアは、知る限りの範囲でのメイド仲間に聞いてくれているとか。どちらにも感謝こそすれど、答えは一向に見つからなかった。
いつの間にか用意されていたスコーンに手をつける。多分、おいしいはずだ。
昼下がりは、優雅とは言えないが過ぎていく。終わらない時間みたいで、僕は期待をしてしまう。そんな時間なんか存在しないってのに。
向こうの世界では雨に降られてばかりで、まともな天気に遭遇できたことが少なかった。こちらの世界の今の時期は、ほとんど雨の降らない時期である。それ故に鳥がよく飛び、草木が茂り、花は色鮮やかな花弁を乱れさせる。
そんな気候のこの世界で。
どれだけ、ハイネと一緒だったらいいことか。
ハイネと一緒に、あちこちに行きたい。こっちの世界の海は、どこに行っても綺麗だと教えてやりたい。
ハイネが望むことなら、全て叶えてやりたい。
ハイネとずっと笑いあっていたい。
ハイネとなら、永遠だって。
病気なんか何とでもなる。
どんな目にあっても怖くない。
死ぬことすら、受け入れてみせるのに。
「お嬢様、今日はお祭りの一番盛り上がる日ですよ。よかったら行ってはいかがですか?」
優しく微笑むルナリアが、僕を見て言った。
確かに天気はいいし、少しぐらいの休息はほしいかもしれない。いや、でも、帰る方法を早く見つけないと。きっと今頃泣いている――。そう考えると、いたたまれない気持ちになる。
「うん、そうだね、そうさせてもらうよ」
寂しがってるだろうなんて考えたりして。
自分の気持ちを棚にあげて。
ざわざわとした広場から続く道。道の端には出店が並び、人が多くたむろしている。
清清しいこの天気で、僕は一人気を安らげるために歩く。
ルナリアは仕事がまだあるからと言って屋敷に残っている。
仕事が終わり次第、エンリッヒと共に来るのだろうと勝手に思っていることにした。
ルナリアからお小遣いという名目でお金を少しもらった。
どうも、エンリッヒが用意してくれていたらしい。
遠慮はしたのだけれど、ルナリアに逆らうのは今の状況ではあまりよろしくないことなのでやめておくことしにた。
あてどもなくふらふらと歩く。
どこを見てもにぎやかだ。
まるで、この世界には何も問題のないかのようなそんな雰囲気さえ醸し出されている。
カムパネルラや家族と、ここに旅行に来たときのことは覚えている。
あの時も、こんな天気だった。
丁度、今みたいに街の真ん中の広場で、曲芸士達が芸を披露していた。
それをカムパネルラと二人で見ていたんだ。
「……うん、これはまずい」
眼前の光景に目を見張り、後ずさる。
どう見たってあの後ろ姿は僕とカムパネルラだ。
多分、家族はまだ宿にいるころだろう。
二人はこの曲芸士たちの芸を途中まで見て、その後近くの出店を見てまわるんだ。
ああ、覚えているさ。
好きな子と何をしたかなんて、一つ一つ覚えているさ。
鉢合わせしないように、店と店の間を縫うように一本裏の道へと入る。
やり過ごすのは容易だった。それはたいした問題ではないのだ。
二人が通り過ぎたのを確認してから、大通りに戻った。
道を行く二人の背を見送り、僕はその逆を歩いていく。
この後は大丈夫、問題なんかないはずだ。
二人で祭りの様子を見て、後は宿に帰るだけ。
そうして、互いの気持ちを知り合うだけなんだから。
しかし、僕は何故こんなにも晴れた気持ちでいることができるのだろうか。
カムパネルラのことで、未練がないと言えば嘘になるけれど。
わからない。
そうしているうちに、陽は傾いていった。
お祭り騒ぎも、今夜を境にその勢いを更に増していくことだろう。
そうしていくうちに、僕はこの世界の流れに身を任せたい衝動に駆られた。
絶対的な答えを持っているのに、それに追従しないというのはなんということか。
……深く考えるのはやめておくことにした。
結局、どこにいたって考えてしまうことは同じなのだ。
気晴らしという名の、考え事か。
それもいいかなと思える自分が、やけに珍しく感じる。
何かが変わったってことなのか。
ルナリアもエンリッヒも、まだこちらには来てないようだ。
一度屋敷に戻って、また一緒に出向いてこよう。
そう思って帰路につこうとした時だった。
「ちょっと、あなた」
呼びかけられて、立ち止まる。
辺りを見回すが、誰もいない。
「こっちよ、こっち」
声は上から聞こえてきた。
「そう、こっちよ」
声のしたほうへと顔をあげる。
建物の二階の窓から、上半身を乗り出した女性がこちらを見下ろしていた。
「え、何、ですか」
とても高い声で、僕を呼んだ。
「ちょーっといいお話があるんだけど、聞いていかない?」
不敵に笑う彼女に、僕は。
何もかもを任せることになるだなんて。
この時はまだ思ってもみなかった。
でも、それでも。
僕は可能性に縋るしかなかったんだ。
僕はあてがわれた部屋で、ずっと外を見ていた。
まだ外は明るい。
祭りは終わらない。
何かが変わろうとしている。
僕が?
いや、きっとこの世界がなんだろう。
駄目だ。
混乱して何も考えられない。
ああ、もうどうすればいいのだろう。
あったことだけを思い出すと、そうだ。
あの女性、アヤカシと名乗ったんだけれど。
アヤカシの部屋で、話を聞くことになった。
そのまま帰るつもりだったのに、時間はとらせないからって言われた。
見知らぬ相手の家にほいほいっと上がりこんでしまうあたり、警戒心がないのもどうかと思う。
でも、何かを感じたから僕はそれに応じたんだ。
彼女が言うには、僕のことを知っているってことらしい。
僕が向こうの世界に行ったことも、元々こちらの世界の住人だということも。
そして、今、向こうに戻る手段を探しているということも知っていた。
一体何者なんだという質問には答えてくれなかったけれど。
でも、重要なことを教えてくれると言った。
僕はそれを聞き逃さないよう、姿勢を正した。
ずっと、クスクスと笑っている彼女の容姿は、どこか妖艶なものがあった。
上からこう、胸元を強調して、くびれはそれこそ整っていて、足元には太ももの見える大胆なスリットが入った民族衣装に身を包み、彼女は足を組み椅子に鎮座していた。
「三日後の夜、街の外れの廃墟においでなさい。向こうに戻る手段を教えてあげる」
見た感じはこの地域の人間ではないようだが、そんなことをすらすらと喋る。
僕はそれを、なんと答えたのか覚えていない。
「それまでに、お別れを済ませてきなさい」
お別れ。
「え、じゃ、じゃあ、もうこっちには戻って来れないって、こと……?」
僕はそれが不安で、聞き返す。
「んー、ま、あなたには向こうでやってもらいたいことがあるのよ」
アヤカシは椅子から立ちあがり、ベッドに腰掛ける僕の頬を撫でる。
顔が近い。とてつもなく近い。
僕の瞳を覗き込むようにして、アヤカシは僕の髪を撫でた。
「大丈夫よ、とって食ったりはしないから」
そう言ったにも関わらず、アヤカシは僕の頬をその長い舌で舐めまわした。
「…・・・ひっ!?」
いきなりの行為に、身を強張らせて、アヤカシから離れる。
「あら、別に食べたりしないって今言ったじゃない」
カカカと笑いそうな顔でアヤカシは言う。
僕は舐められた頬に手をあてて、何も言えずに黙り込んだ。
「そんなに警戒する必要はないわよ。ほら、今日はもう戻りなさい」
そう促されて、部屋のドアを開けられた。
僕は何も言えずに、部屋から出た。
「あ、そうそう」
背後で声がする。
そっと振り向くと、彼女がにっこりと笑っていた。
「信じるも信じないも、あなたの勝手。ただ、私はね」
その言葉を、僕が信じるかどうかで。
「あなたにしかできないことを、してもらいたいの」
世界が一変するというのなら。
「誰でもない、あの子のこと」
僕は。
「水嶋ハイネの命を、救ってほしいの」
後悔しない世界を、望むんだ。
マリィ篇3へ続く。
「まあそうだよね、浸水しててこっから先は行けないよね」
ぼそっと呟くようにして、目の前の光景に立ちすくんだ。
本州とこちらを結ぶトンネルが、先のオルフェウスのせいで沈んでいるだなんて思ってもみなかったのだから。
はあとため息をついて、ソファで眠ったままの遼をバックミラー越しに見る。
顔は見えないが、何も言わないってことは眠っているのだろう。
安心して、今一度正面の光景を目に焼き付けた。
瀬尾からこの車を受け取って、二日が過ぎた。
それからは誰にも会っていないし、二人だけで過ごすことになっていた。
今、これからをどうすべきかが問題なのはわかっている。
陸路が駄目なら、空路、いや海路か。
とは言うものの、港なんかまともに動きそうな船なんかないだろうし、仮に動けたとしてもこのご時世だ、何が起きるかわからないものだ。
待てよ、そういえば引き潮で海水が引いていくんじゃないか?とも考えたが、結局はそれも当てになりそうになかった。
当分、ここで立ち往生か。
遼が退屈さえしなければ、それもいいだろうとは思う。
でも、四塚さんに会いに行くって決めたからには、行かないといけない。
まずは、他の道でも探すことにしよう。
それに、先にラジオを流してるやつのところに行かなきゃ。
車をUターンさせて元来た道を戻る。
天気は上々、晴れのち晴れ。
快晴である。
当分、雨は降らなさそうだ。
今日は、十月九日。
世界崩壊から、五日目。
僕と遼はまだ、生きています。
※ ※ ※ ※ ※
「葵さん、その荷物はなんでしょうか」
少し目を離しているうちに大きな荷物が手荷物に増えていた。
「え、これは、そのね、うん」
何だかあたふたしそうな雰囲気の葵を見て、俺はいい予感もいやな予感も同時に遠のいていったことに気づく。
「見せなさい」
無表情で葵に詰め寄り、それを奪う。
「あ、ちょっとー……」
中を開けると、もりもりっとぬいぐるみが詰められていた。
「……」
唖然とする余裕もなく、肩を落とす。
「戻してきなさい」
「いや」
即答されても困るんだけど、実際。
とは思ったものの、言うのすら憚られるような状況で。
まだ家を出て、数百メートルと離れていないのにこんな調子だった。
家を出てすぐに葵が忘れ物をしたと言い出したので戻って取りに行かせたのがこれ。
何ともまあ、この姉はとも思うが、これだけならまだいい。
この荷物以外にも、がんっと荷物が増えている。
勘弁してほしいよ、全く。
一旦家に戻り、その荷物を全て置いてくることにした。
あーあー。
こんな調子で、誰かを助けることができるのかな。
不安になってきた。
とりあえず、当てもなく彷徨うのはまずいので、まずはハイネを訪ねていくことにした。
きっと無事だとは思うけれど、まず葵を安心させておかないとまずい気がする。
でも、旅は道連れ世は情け、にはならないように気をつけようと思う。
よくよく考えると、彼女の入院している病院は遠い。
海沿いの、あの街に行くのに、電車で一時間ちょっとかかるんだよ。
それを、ほとんど徒歩で行こうなんて思っては居ないけれど。
両親の車を借りてきて正解だったと今心から思う。
しかし、本当に誰の姿も見えない。
オルフェウスの影響で死んでしまったのだろうか。
いや、それはないはずだ。
誰も、家から出ようとしないだけだろう。
その気持ちは、俺も葵もわからないでもないんだ。
でも、ただ家に閉じこもっているよりも。
誰かの役に立ちたいと俺は思ったから、家を出たんだ。
そう、誰でもよかった。
人助けになるなら、何だってするつもりでいたんだ。
「え…いない、んですか?」
葵のがっかりした顔を見て、久々に見たなこんな顔とか思ってしまった。
病院についたのが、既に夕方を過ぎたころだった。
家を出たのは、朝だったんだけれども。
それでも、少しずつ、人の姿を診ることができた。
所々の道が、崩れて通れなかったりしたので迂回ばかりしてやっとたどり着いた。
その結果がこれ。
どうやら、世界崩壊の日の朝、病室から忽然と姿を消していたという。
仲のよかった子もいないので、一緒に出て行ったのではないかと言われてしまった。
がっかりする葵を宥めながら車に戻る。
「……どこ、行っちゃったんだろう」
寂しそうな葵を抱き寄せて、頭を撫でてやる。
「何か、あったのかなぁ……」
俺はそれをただ、聞くだけに留めて。
車を走らせた。
十月七日のことだった。
世界は崩壊した。
あの世界崩壊のニュースは、真実だったのだ。
崩壊の時を、俺は葵と共に過ごした。
世界を包んだあの白い闇。
一瞬で、街中の建物は崩れていき、風は止んでしまった。
まるで、流れ星がいくつも降り注いだかのような。
今現在、この国を始めとする世界中の国は国家としての機能を果たしていない。
権力を持つ政治家たちが、全てこの星から出て行ってしまったからだ。
何でも火星に移住するとかいう話だったと思う。
今この御時世に、移住できる環境なんかあるのだろうか。
きっと、帰ってこないのだろう。
星を捨てた人間を、地球が拒むと、そう考えていたりして。
暴動でも起きるかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
公共の機関は、流石にもう動いていない。
ニュースももう、一週間ほど前からやらなくなった。
どこからか、誰かが流すラジオだけが頼りになった。
そういえば、九支枝のことは誰にも話していないような気がするし、何だか奇妙な夢を見たような記憶もある。
どんな夢だったろうか。
断片的に覚えているのは、かすかな火薬のにおいや、血なまぐさいあの。
「どうしたの、四塚」
呼ばれて、意識が飛んでいたことに気づく。
傍らに座る葵が俺を見ていた。
「あ、いや、何でもない」
「そっか」
葵は頷き、ハイネの歌を口ずさみはじめた。
呑気なものだと、俺は思う。
世界が崩壊したとはいえ、現実問題困ることなんて山のようにあるのに。
食糧とか、この先の世界の再興とか。
どうしたものだろうか。
誰かに連絡がとりたくても、携帯電話は電波が届かなくて使えない。
住宅地の中にいてもそうなるので、電波塔が壊れてしまっているのだろう。
考えられる要因はいくつもあるのだが、俺にとってのそれは理解できないわけではなかった。
そんな状況だ、誰からの連絡もないのが当たり前だろう。
しかしそれでもなお、誰かからの連絡を待ち続ける。
そんな簡単に、死ぬようなやつらじゃないはずだから。
でも、それでも死んでいった、あの双子も。
子供を残していった彼女も。
もう戻ってはこないのに。
ただ流れるラジオだけが、今生きている人達の希望となっている。
その希望に、藁をつかむ思いですがることしかできない。
「待ってるだけなんて、嫌だ」
立ちあがって、そうつぶやいた。
「んー……どうしたの、四塚」
目をこすりながらあくびをする葵。
「うん、俺、行くよ」
いきなり何を言い出すのだろう、といった顔をしているわけではないが、眠たくて思考が追い付かないようだ。
「……つれてってぇ」
「うん、わかってるよ。葵を置いてくなんて、できない」
そう、置いていくことなんてできないんだ。
姉弟という概念を持ってはいたが、そんなことを気にする間柄ではなかった。
かといって、互いに意識していないわけでもなかったようだ。
本当は姉弟じゃないってわかっても、嬉しいとか悲しいとかはなかったけれど。
何だか、胸に穴が空いたような感覚があった。
でもいいんだ。
ここに、俺と葵がいる。
それが全てだ。
両親に話をして、家を出る準備をした。
快く了承してくれた両親に感謝しないといけない。
葵は部屋で、必要なものだけをまとめているらしい。
俺はもう、準備は済ませた。
一度出た家に戻ってきて、また出て行く。
正直なことを言えば、もうどこにも行くつもりはなかった。
誰にも会うつもりすらなかった。
それでも、俺の心は違った。
思っていることも、やろうとしていたことも。
全部、全部違った。
世界崩壊から、三日。
十月七日。
季節は秋。とは言い難いほどに暑い日々が始まった。
これも世界崩壊の影響だろうと勝手に納得するとしよう。
暑いのが苦手な葵は、辛そうな表情すら見せずについてきた。
そう、この世界で。
俺は葵と共に旅に出ることにした。
目的は、困っている人を助けること。
この世界で困っている人を助けようって。
生きている、それだけで俺たちは。
昨日は、九支枝の両親のことが気になって、尋ねて行った。
両親とも無事に生きていてくれたみたいでほっとした。
双子も、こんな状況で元気そうにしていた。
無事に育ってくれるといいと心から願う。
ハイネからの連絡はない。
でも彼女なら、生きていそうな気がする。
気が、する……。
考えるだけで辛くなりそうだ。
きっと、いつか連絡があるだろう。
藤宮からの連絡もない。
北海道に無事に着けたかどうかだけが心配だ。
瀬尾とかいうやつにも、あれから会うことはなく時間が過ぎていた。
以上、一部回想終わり。
俺は今、葵を待っている。
まだ準備をしているのだろうか。
時間のかかる女ってのは、嫌だなと思っていたけれど。
九支枝や葵に関しては、そうは思うことがなかった。
ああ、いつか九支枝のことも語らなければいけないのだろう。
できれば、死ぬ間際とかじゃないことを祈って。
階段を降りてきた葵と、目があう。
「準備終わったの?」
小さなバッグ一つで、彼女は答える。
「うん、よく考えたら、そんなにもっていくものなんてないし」
少し声が上ずっている。
楽しみなのだろう。
この状況で楽しみだと思える葵も素晴らしいとは思うが。
「じゃ、行ってきます」
「いってきます」
両親に別れを告げて、玄関を開けた。
それは、新たな旅路への第一歩となる。
それでも世界は生きているから。
四塚と葵篇 始まり。
わたしは誰でもない貴方に問いたいの。
そう、このモニターの前の貴方に。
貴方は今、生きていますか?
もちろん生きているのでしょうね。
そんな貴方が羨ましいとは言いませんけれど。
わたしは、既にこの世界には存在しないのです。
貴方にはわたしの経験したお話を、少しだけ聞いていただきたいのです。
無論、ご無理は申しません、お時間のある方のみで結構ですから。
だからせめて、わたしが生きていた時のお話を聞いてください。
ただ、誰かに知ってもらいたくてわたしは語ります。
わたしがいたことを、知っていてほしいから。
いつから彼女に惹かれていたのだろう。
ひょっとしたら、スクラヴァ家に迎えられた時からなのかもしれない。
それとも、あの聖誕祭の夜から?
ひょっとして、旅行の時から?
わからない。
けれど、わたしには一つだけわかっていることがある。
わたしは、マリィを愛している。
もう二度と、会えないけれど。
「ごめんねカムパネルラ、ごめんね」
わたしの首を絞めながら、何故あなたは泣いているの。
「でも、こうするしかないんだ」
こんなに力があったなんて、わたしは初めて知ったわ。
苦しくて息ができないけれど、平気よ。
「カムパ、ネルラ。僕は、君のこと」
わかっているわ、あなたのことだから。
そんな悲しそうな顔をしないで。
ほら、見て。
月がとても、綺麗よ。
物心つく前に、わたしは母と引き離された。
父の話を聞くからには、母はわたしに暴力をふるう人だったと聞いた。
それが赤ん坊のころ。
わたしが生まれて、一年と経たぬうちに家族は離散したらしい。
まだ乳飲み子であるわたしを連れて、父は旅に出たのだと聞いた。
三年近く、町という町を転々としたんだって。
そうしてたどり着いたこの街で、スクラヴァ家の方に拾われたんだって。
そう聞いている。
スクラヴァ家の方々は、わたしと父を暖かく迎えてくれた。
使用人という形で雇ってくれたのに、家族のように扱ってくれた。
わたしは、わるいことをすれば他の子供と同じように奥様に怒られたし、いいことをすれば誉めてもらえた。
誰かの誕生日を祝うこともあったし、わたしの誕生日を本当の家族のように祝ってくれもした。
わたしはスクラヴァ家の人たちが好き。
わたしにとって、覚えのない母親よりも。
今まで一緒に生きて、生活してきたこの人たちが。
本当の家族だと思うから。
生誕祭の夜にカムパネルラと一緒に屋根裏部屋に入ったのを覚えている。
誘われたわけではない、わたしが勝手についていったのだ。
退屈をしているよりは、誰かの後について何かをしたかったのかもしれない。
それとも、誰かの傍にいたかったのか。
大人たちは、お酒を飲んで大騒ぎだし、お兄さまやお姉さまたちも大人の会話に混じっていたりして。
それに、父もそこに混ざっていてわたしの相手をしてくれない。
わたしはひどく時間を持て余した。
そのとき、部屋を抜け出す彼女を見てついていこうと決めた。
その後は、眠たくてあまり覚えていない。
意地悪をされたのではないことは、わかっていたから。
わたしは、このとき、彼女が困る顔を見たかったのだけれど。
何だか、照れているように見えたのが印象的だった。
それから少しして、わたしたちは旅行に行くことになった。
よく覚えている。
暖かい日で、風もあまりない日。
お部屋は、彼女と一緒だった。
外の様子がとても綺麗で、わたしは彼女を呼んだ。
けれども彼女は椅子に座って、タバコを吸おうとしていた。
本当に綺麗な、街の様子。
わたしは不意に思いついたことを口走った。
「ね、マリィ、お風呂入ろう」
それに返すかのように、彼女はキョトンとする。
すぐに、咥えていたキセルを落とし、火種を指にぶつけたようだった。
「あっつ!!」
どれぐらい熱いのだろうと、考えてしまった。
でもきっととても熱いのだろうから、手当てをしないといけない。
火傷がひどくなってしまっては大変だから。
「だ、大丈夫?」
ぶんぶんと振る手を掴んで、その指の先を口に咥えた。
焦げた木のにおいが、彼女の指の熱さを示す。
細い指に、自らの舌を絡めていく。
彼女は何も言わなかった。
「ん……これで、大丈夫かなぁ」
指先から口を離して、彼女を見上げる。
何だか、豆が鳩にうちでの小槌を振られて鼻が伸びたので、うさぎを追い抜いて、終いには桃を切ったら大判小判がざっくざく、といった表情をしていた。
……本当にそうだったかなぁ。
ううん、違う。
何だか照れたような顔をしていた。
そう、照れたような顔を。
「マリィ? 嫌だった……?」
少し不安になる。
彼女が何も言わずに、そこにいることが少しだけ怖かった。
「え、あ、いや、そんなことないよ!」
はっとした顔で、私に向かって言う。
腕をつかまれて、大声だった。
「……なら、よかった」
嬉しかった。
無意識のうちに微笑んでしまうくらいに。
ゆっくりと、視界から彼女が消える。
「……マリィ、どうしたの?」
消えたのではない、彼女がわたしを抱きしめたのだ。
彼女の心臓の鼓動が伝わってくる。
すごくドキドキしているようだ。
わたしは、彼女にベッドに腰掛けるように促した。
まるで、彼女は犬のように、わたしの膝にその身体を委ねた。
それを受けて、膝に彼女を誘導する。
帽子が、彼女の可愛らしい顔を隠していたので、とってやる。
「……ねえ、カムパネルラ」
小さな声で、彼女は言いました。
「うん、どうしたの、マリィ」
わたしは答えて言葉を待つ。
彼女のやわらかい髪が好きで、わたしは空いた手で彼女を撫でる。
「おかしい、かもしれないのだけれどさ。僕は、君に言わなくちゃいけないことがあるんだ」
髪を撫でてやると、本当に、犬のように身体を預けようとしてくる。
その仕草すら、わたしには勿体無いのではないかと思う。
「……教えて?」
知りたい。
知りたくて、わたしはそう言った。
彼女の手が、わたしの胸を包む。
わたしも少し、ドキドキしている。
「うん、驚かずに聞いてほしいんだ」
手持ち無沙汰だった左手は、彼女にとられた。
暖かい、手だった。
抵抗することもないので、髪を撫で続けていた。
「ひょっとしたら、嫌、そうじゃない」
言い淀むけれど、その言葉を。
「うん、ゆっくりで、いいよ」
少しだけ、口を開いて彼女は言った。
「君のことが、好きだ。家族としてではなく、友人としてでもなく」
わたしはそれを聞いて、手をとめた。
驚いてしまったのだ。
今まで、男の子にもそんなことは言われたことがなかった。
「……どういう、こと?」
彼女を見つめて、次の言葉を促す。
「……続けて?」
何かを決めた、そんな表情で彼女は言った。
「きっと、いや、確定的なものだと思う。愛しているんだ、カムパネルラ」
何かが決壊した。
彼女は真剣な顔をして、わたしにそう言ったのだ。
愛、している?
父からしか、言われたことのない言葉。
それは、本当に好きな相手に贈る、大切な言葉。
ああ、そうだったのね。
「……わたしもよ。わたしもマリィを愛しているわ」
そういうことだったのね。
ありがとう、マリィ。
あなたのおかげでやっとわかったわ。
「泣くほど、嬉しかったの?」
彼女は一瞬、え? といった顔をしたが、すぐに理解したようだった。
「あ、……ありがとう」
彼女は起き上がって、わたしを押し倒した。
「ありがとう、マリィ」
わたしはお礼を言って、瞳を閉じた。
わたしは、彼女が何をするのかわかっていたかのように。
その行為を、受け入れた。
ああ、わたしは今。
そうして、わたしと彼女は二人で行動するようになった。
時間さえあれば、いつも一緒にいた。
笑いあって、泣きあって。
家族にも言えない関係になってしまった。
でもわたしは嬉しかった。
幸せだった。
そうやって時間が過ぎていったある日のこと。
彼が、転入してきたの。
アラカンサス。
彼女が言うには、見た目は普通なのだけれど、中身はすごいとか何とか。
わたしにはよくわからなかったけれど、私たちは彼に惹かれていった。
恋とか、そういうのではなかったの。
ただ、純粋に。
彼と彼女と、よく出かけるようになった。
ただ、わたしたちは何かが違うなんてことがないように、普通にしていた。
楽しかった。
毎日が、まるで夢のようだった。
そうしてわたしが、幸せを噛み締めていたころ。
きっと、そのころから彼女は。
「僕は、君を、カムパネルラを大事にしたい」
そう言ってきたのは、まだ冬も終わりきらない日のことだった。
「……うん、ありがとう、マリィ」
学校からの帰り道、雪の降る夕方。
路地の影で、彼女は言った。
「わたしも、あなたのこと、大事よ」
微笑んで返す。
「……はは、そう、だよね」
少し悲しそうな顔をして彼女は言った。
「カムパネルラ、話があるんだ」
深刻そうな顔で、彼女は言う。
「……うん」
わたしは、この時既にわかっていたのかもしれない。
「家に帰ってから、ゆっくり話すよ」
先を歩く彼女。
わたしは、わかっていたのか。
後を追って、ゆっくりと家に向かった。
夜は、雪が吹雪になっていた。
ごうごうと音を立てて、風が窓を叩く。
少し、怖い。
「カムパネルラ、おきてる?」
部屋のドアをノックする音。
「うん、どうぞ」
わたしはもう、いつでも眠れる体勢でいた。
がちゃりとドアがあいて、彼女は部屋に入ってきた。
「いらっしゃい、マリィ」
彼女の顔を見ると、安堵感を感じた。
わたしは思わず彼女に飛びつく。
「どうしたの、ひょっとして、吹雪が怖いとか?」
図星なので、はい、とは言えずに、そのまま何も言わない。
「はは、本当、君は子供みたいだね」
わたしの頭を撫でながら、彼女は言う。
それはそうよ、だってまだわたしたちは子供なんだから。
子供が、愛を語るなんて、おかしなことだと大人は言うかもしれないけれど。
「……カムパネルラ」
ゆっくりと、顔を見合わせる。
そう、今日までなのね。
「僕は、君を誰にもとられたくない」
まるでスイッチが入ったかのように、彼女は言う。
「家族の誰にも、アラカンサスにも、誰にもだ」
「……はい」
わたしは頷く。
「だから、永遠のものに、したいから」
その続きは、言わなくてもわかってしまう。
何故なら。
「愛しているよ、カムパネルラ」
「……わたしも、あなたのことを愛しているわ」
互いに見詰め合って、口付けを交わす。
いつにも増して、激しい口付けだった。
彼女はわたしを求め、貪るように。
わたしは彼女に与え、求められるがままに。
それが、最後の口付けだとわかっていても。
「ごめんね、カムパネルラ」
泣きそうな顔をして、彼女はわたしの首に手をかける。
「いいのよ、マリィ」
優しく、諭すようにわたしは言う。
「あなたのために、わたしは」
それ以上は、言えなかった。
怖いものはなかった。
わたしは彼女にどうされようがよかったのだ。
彼女と一緒になれて。
嬉しかった。
悲しかった。
寂しかった。
怖かった。
どれも経験してしまった。
だからこそ、わたしは彼女のものであり、彼女はわたしのものであった。
もう、この世界では会えないけれど。
「あなたのことを、愛しているから」
首にかかる手に、力がこめられていく。
「ごめんね、カムパネルラ。ごめんね」
ああ、泣かないでマリィ。
大丈夫よ、平気よ。
「ごめん、ごめんね」
謝りながら、何故あなたは泣いているの?
大丈夫って、言ってるじゃない。
少し苦しいけれど、わたしは手を伸ばして、彼女の髪を撫でた。
「……愛して、いるわ」
掠れた声で、わたしは言った。
段々と遠のいていく意識の中で。
最後に見た彼女の笑顔が。
今も瞼の裏に焼きついて離れない。
そうして、わたしはこの世界から身をひくことになった。
今、彼女はどこで何をしているのだろう。
わたしは、ここにいるのに。
きっと、新しいパートナーでも見つけたのかもしれない。
それでもわたしはいい。
彼女といることができて、本当に幸せだったから。
短い人生だったけれど、悲しくはない。
いつも、彼女との思い出で溢れていたから。
今、目の前にいる貴方へ。
貴方は今、生きていると言えますか?
それは、どういった意味で言えるのでしょうか?
誰かの役にたつことをしていますか?
自分の夢を追いかけて、それを果たすために努力していますか?
今、あなたは幸せですか?
これで、わたしの話はおしまい。
またいつか、どこかで会えるかもしれないけれど。
わたしがいたことを、覚えていてほしい。
わたしが、わたしとしてマリィの隣にいたように。
マリィの幸せを願って。
一体いつになれば、雨は止むのだろう。
もう、四日も歩きっぱなしだった。
途中、泊めてくれる家を探しては、泊めてくれるように頼んだ。
心優しい人ばかりではなかった。
「知らない奴に食べさせるものはない」
とか、
「いくら有名人だからって、なあ」
って言われてきた。
辛かったけれど、私は我慢以外の方法を知らなかった。
もう少し、要領よく生きることができればいいのにと、この時ほど思ったことはない。
だから、私は口ずさむ。
「この、せーかー、いでー」
人の姿なんて、滅多に見ないから。
追いはぎや、泥棒みたいなのはいない。
大好きな兄様もいない。
夢に出てくる、あの子はだあれ?
世界が崩壊した日、私は病院のベッドの上にいた。
ベッドを、半分だけ空けた状態で寝ていたようだった。
おかしいと思ったのは、すぐだった。
私がつけている、ピアスと、ベッドの空いた側の温もり。
私のものではない、香水の香り。
何か、大切なものを失った気がするのだ。
それが何なのか思い出せない。
病室自体も、私の病室ではなかった。
病室の名札すら、かかれていなかった。
一体、どういうことなのだろう。
私はまず兄様を探すことにしたのだ。
そうすれば、何かがわかるかもしれないと思って。
葵さんには、連絡がつかない。
きっと、この世界崩壊の余波で電子機器の一部は壊れてしまったのだろう。
とても心細かった。
私は、一人だった。
兄様が、私をすくってくれたから、リリと出会うことができた。
そうして、リリは私から兄様をとろうとした。
そんなリリを許せなくて、私はリリを殺して、食べて。
そうして、自らの喉を切り裂いた。
それが、歌姫としての末路。
辛うじて命は助かった。
でも、今度は声が出せなくなってしまった。
入院することになった。
ほとんど隔離状態での、治療。
私は狂う寸前だった。
しかし、部屋の抜け出し方を覚えてからは楽しくなって、狂うだなんてことはなくなった。
ある日、一人の子が運ばれてきた。
どうも、浜辺で倒れていたらしい。
その子が気になって、見にいった。
……そこまでしか、覚えていない。
世界崩壊の、影響が人体に及ぼした影響が、これなのだろうか。
私は何か大事なことを忘れてしまったような気がする。
まるで、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚。
寂しくてたまらない。
私がそこにいることを、いるだけで理解してくれていた誰かのことを。
その人のことを忘れてしまっているだなんて。
辛い。
辛くてもう、死んでしまいそうだ。
でもそれじゃあ意味がない。
私はその誰かを探すために、歩き出した。
「こ、の、せーか、いーでー」
歌を歌う。
このフレーズだけが、頭に残っていた。
おかしなことに、咳も止まった。
相変わらず、変なところで言葉が切れるのは癖だ。
こればかりはもう治しようがない。
「本当、どこに、行った、のかしら」
歩いて歩いて、ずうっと歩いて。
葵さんのおうちに行こうと決めた。
何か、手がかりがあるかもしれないから。
それが、十月八日のことだった。
雲ひとつない空を見上げては正面を見る。
歩くスピードが少しだけ周りと違うせいで、私は置いていかれてしまった。
それが、小学校にあがってすぐのこと。
誰も私を見てくれなかった。
家族はもとより、友達なんてできやしなかった。
家の中では誰よりも兄様が一番、私を見ていてくれた。
父も母も、いい人たちだった。
今は、私と兄様の帰りを待ってくれている。
それでも私は、置いていかれてしまった。
歌うのは好きだったから。
一人で居る時はずっと歌っていた。
寂しいことなんか、蹴散らすぐらいの勢いで。
いつか、誰かが見てくれることを信じていた。
それを見てくれて、手を差し伸べてくれたのが兄様だ。
それから私は、兄様のいるバンドに入ることになった。
そうして私は、水嶋ハイネを名乗ることになった。
とは言っても本名だ。
可愛らしい名前なんて、思いつくことがなかったし。
そのころは、兄様だけを見ていた。
兄様に誉めてほしかった。
兄様がいないと、何もできなかった。
時間が経つにつれて、私はその名を広めていった。
私は、ただ歌っていただけなのだ。
それなのに歌は私を導いてくれた。
兄様が笑顔で私を見てくれた。
それが嬉しくて、私はもっと歌った。
やがてそれを止めるかのように現れたのがリリだった。
リリは、最初から兄様と一緒にいた。
メンバーの誰かの妹で、最初からいた。
私はリリとすぐに仲良くなった。
一緒に歌えることが、とても嬉しかった。
彼女の方がお姉さんで、私はいつも妹のように見られていた。
でもそれが嬉しかった。
おかげで、兄様はいつも笑ってくれていたから。
でもそれがいけなかったのだ。
兄様はいつしか、リリだけしか見なくなった。
それがとてもショックで、どうしようもなかった。
湧き上がってきたのは悲しみだけ。
でもそれを悟られぬよう。
兄様の前だけではせめて、悟られぬように。
「いない、の、ですか」
葵さんのおうちに着いたのは、その翌日。
もうヘトヘトで、体力的にも限界が来ていた私は玄関先で腰を抜かしてしまった。
葵さんのご両親は、とてもよくしてくださった。
私の話は聞いていたらしく、何だか色々とお世話になってしまった。
お風呂をいただいて、ご飯もご一緒させてもらった。
家族として、扱ってくれた。
とてもとても感謝しきれないぐらいだった。
そして、葵さんの部屋に入らせてもらった。
特に、大して殺伐とした風景でもない。
私の部屋より、ものが多いとかそういう感想しか出てこなかった。
CDラックに、見慣れたジャケットのCDが並んでいた。
HAINEとして活動していた時のものから、ライブ前に出したものまで揃っていた。
何だか不思議な感じがした。
部屋のオーディオで、最初のCDをかけた。
「かげーの 向こうがわにー」
気がつけば、歌いはじめていた。
「私がー いるからー」
リリが、歌っていたこの曲。
メジャーデビューした時の曲は、これを私とリリの二人で歌った。
本当に綺麗だったリリ。
私の姉代わりでもあり、優しかったリリ。
でも兄様をとろうとしたから。
あの日、兄様と口付けを交わしたあの日から。
私はリリを傷害としてみるようになった。
その後のことは、鮮明に覚えている。
リリと二人きりで、出かける予定をつけた。
兄様も誰もいないところへ。
そして、そのまま夜になって。
私の家に泊まってもらう算段をつけて。
家族は誰もいない、その日を狙っていたから。
計画は簡単に実行できた。
全てが落ち着いた後で、私は話を切り出した。
「リリ、私ね、兄様の、こと」
リリは振り返る。
「知ってる。好きなんでしょう」
笑顔だった。
彼女は、恐れるものなど何もないと言わぬばかりの笑顔だった。
「でも、ごめんなさいね。あの人は、このリリのものなのよ」
わかったら、あなたが引きなさい。
そう言った、リリが。
とても憎く見えた。
誰もが犯罪者を見て、嫌悪感を抱くように。
それと同じ感覚で、憎悪の感情が沸いた。
リリが、部屋を出ようとする。
「あや まるの は私の方、よ」
私は隠していたバールで、彼女を殴りつけた。
その場に蹲り、転び、、呻き、声をあげるリリ。
「でもね、兄様が見、ていい、のは私、だけ」
何度も何度も、彼女がおとなしくなるまで殴りつけた。
途中、私を見上げた彼女の表情は。
きっと、よく似た表情をしていたのだろう。
憎悪に塗れた、鬼のような形相に。
やがて、やっとおとなしくなったリリを見て。
私は安堵した。
うつ伏せの彼女の死体を、ひっくり返す。
苦痛に歪んだ顔さえ、のぞけば、彼女は十五歳にしては完璧なものを持っていた。
綺麗な髪。
整った容姿に、歌声。
どれも私が羨んだものであり、私の兄様を虜にした狂気となりえるものだった。
彼女の衣服を脱がして、ごみ袋にいれた。
この時期は、兄様はスタジオに通い詰めで滅多に家には帰ってこなかった。
両親だって、本当は仕事が忙しくて、家には滅多にいない。
私は寂しかったのに。
誰も本当の意味では構ってくれなかった。
私は、部屋の冷蔵庫に彼女をしまうことにした。
ゆっくりと時間をかけて、彼女の身体を切断する。
アキレス腱を切るのには時間がかかった。
何せ、硬い腱なので、元々力のない私には倍の倍ぐらい時間がかかったと思う。
カッターナイフでアキレス腱を切りつける。
プチプチと筋を切るのに、とても時間がかかってしまう。
まだ身体が暖かいうちに作業を始めたので、血飛沫がひどい。
血管を切りつける度に、返り血が飛び交った。
私の身体はすぐに血でべとべとになった。
それが、両足。
手首は結構簡単に切ることができた。
それでも、この日はそこまでしかできなかった。
彼女が目を覚ますことはなかった。
何故なら、もう既に死んでいるからだ。
一度休んで、次の日に持ち越した。
関節毎に切っていけば、そんなに無理な力は使わないで済むことに気づいた。
兄様のコレクションのナイフを、勝手に持ち出した。
きっと、兄様も、リリの身体をこうしてばらばらに解体することができただなんて聞いたら、嬉しいだろう。
膝の皿は、思ったより苦戦したけれど。
形のよかった乳房は、二つとも身体から切り離した。
リリの身体は全部で十四の肉塊になった。
私は、全てをバラバラにして満足していた。
でも本当の目的はそれじゃなかった。
彼女の全てを私の中に取り込むことが、望みだった。
時間はかかったけれど、私は彼女の全てを食した。
一番おいしくできたのは、出汁として使ったアバラ肉だったかしら。
それとも、解体しながら食べた肝臓のレバーだったかしら。
いえ、やはりあれね。
胸に入れた刃で、抉り出した心臓だわ。
どこまでも、知り尽くして。
何でも持っていた彼女を。
胎内に取り込んで。
私は大きく羽ばたいた。
リリを殺して、すぐに兄様から連絡があった。
連絡がとれないらしい。
何かあったのでしょうかと惚けた。
私は何も知らないという体で、メンバーとも接した。
そうしてリリは、行方不明のレッテルを貼られて、闇の彼方へと消えていった。
私は、安堵していた。
これで兄様が振り向いてくれると。
そうして時は流れていった。
あのライブで、私は死ぬつもりだった。
この喉さえなければ、もう生きていかなくてもいいと思えたからだ。
他にも理由はあるけれども。
死ぬことができなくて、病院送り。
事実を知った兄様は、二度しか会いに来てくれなかった。
可哀想な兄様。
恋人を殺したのは私なのに。
でも、それでも。
頼んだことはやってくれた。
ピアス。
少しだけ思い出した。
私は、あの子を探さないといけない。
名前は思い出せないけれど。
探して、もう一度会って。
全てを告白しなければならない。
その答え次第では、私はこの世界を崩壊させよう。
水嶋ハイネにとっての、世界を崩壊させるのだ。