今こうしている間にも、遼の様子は変わらない。気がつけば、外は完全な闇に包まれていたのである。
「まだ七時にもなっていないのに……」
辺りの暗さに愕然とする。街灯が遠くに見えてはいるが、それも心細い灯りを放つだけだ。
まるで生気の感じられない遼を見ているだけしかできないのだ。悔しい。悔しくてたまらない。
所詮、何もできないのかと心の中でごちる。人の記憶が読めたって、何の役にも立ちゃしない。そうやって自分を責めるしかできない臆病者なんだ。
何もかもを失ったように感じ、それじゃ駄目だと、どこかで気づく。一度頭の中を整理しようと、車を出る。
昼間は暑くなったこの地域も、夜は寒いままらしい。やけに風が冷たく感じ、そういえば汗だくで戻ってきたのだと気づく。シャツは汗でべっとりとしていたし、一度着替えた方がよさそうなのは明白だった。
吐く息はやはり白く、車の灯りでそれが認識できる程度ではあった。
星空が綺麗だ。 しかし、月は隠れてしまっている。
遼と一緒に眺められたらどれだけいいだろうか。ぼーっと考えて、ため息をつく。
そろそろ車に戻ろう。遼のことも心配だし、人のいるところに行けば遼は助かるかもしれない。車の方へ向き直り、ふっと目線を上にあげた。
車の屋根の上に座り込む、奇妙な奴がいることに気づいた。
「な……何だ、お前……」
それは、いつの間にか戻ってきていた月の光を受けて輝いていた。いや、輝いていたように見えただけか。人とは違う、何かなのだと雰囲気で理解できた。得体のしれない感覚に、生唾を飲む。一体、こいつは何者だろう。記憶を探ろうと目を凝らす。
そいつはこちらに気づくと、屋根から飛び降りてきた。一瞬だった。声をあげる前に、目の前にそいつはいたのだ。
記憶が読めるはずが、なかった。その一瞬で間合いを詰められて、見下ろされる。人でないということを認識させられる。瞳はまるで燃えるように赤い。誰もが燃える火のようだと認識するぐらいの赤さだ。
その双眸に見下ろされ、身動き一つとれないでいる。
また月は雲に隠れてしまった。
様々な考えが、頭から手先から、身体中を駆け巡っていく。どうする。この目の前の存在に、どう対処するのか。逃げる。逃げる? こいつの後ろに車があるのに、それを置いていくとでもいうのか。遼を置いていくつもりなのか?
考えうる術をほとんど捨て、一つの可能性に思考が偏る。それを捨てられるほど、未熟ではないつもりでいた。
「どうした、人の子よ」
不意にそいつが喋りだした。驚いたのもつかの間、二の句が告げられる。
「君の愛する彼女は、世界に選ばれたのだ」
意味のわからない言葉だった。それを、頭の中で何度も反芻する。
「なに、言ってるんだ、それ……どういうことだよ」
世界に選ばれた、なんて、一体。
「分かっているだろう、この世界の現状を」
真っ直ぐに見つめられ、余計に動けなくなる。その瞳には、何かが宿っているようにも見えた。
「彼女は、我らのためにこの世界に選ばれたのだ」
「説明、してくれよ……」
俺は、この不思議な奴の言うことを素直に信じた。
いや、信じたというよりは、聞かなければならないと思ったのだ。
「いいだろう。心して聞け、人の子よ」
そいつは空を仰ぎ、一声吼えた。
それは風を呼び、雲を退け、隠れていた月を呼び戻す。
「彼女が選ばれた理由、そして」
「この世界が崩壊した理由を」
そんなことが、あるはずがないと俺は思っていた。
ありえないことはありえないのだと、何かで読んだことは記憶にあるし、誰もがそう思っていないわけじゃないことも知っている。
だけれど、この事実に関しては、素直に肯定できないものがあった。
「誰もが望んだから……世界が崩壊した」
オレの前に佇むそいつは、自らを異種王と名乗った。
人の形をとってはいるが、人でないものであり、それらを統べる存在であるという。
まさか着ぐるみじゃあるまいと、訝しげにしていると、疑問符を浮かべて俺を見た。
どうやらそのようでもなさそうだし、こんな機会は滅多にない。
でも、その事実が受け入れられないのだ。
「……人というのは、勝手なものだな」
異種王は車の屋根に軽くのぼり、そこに腰掛け、オレはタイヤを背にして地べたに座った。
「争いを望み、愛を求め、それでも尚欲望のままに生きる。我らはそんな人間を羨ましいとは思えない」
「そりゃ、だって、昔から、そういう風にしてきたからだ」
「昔から、か。なら、この世界に存在するための理由は何だ」
異種王の声のトーンに、高低差が生じるようになった。
きっと、憤慨しているのだろう。
「……大事なものが、あるからだろ。それをみんな、守りたいんだ」
そう思う。きっと、そうだと。
「気に食わないな」
その意見には賛成してもらえなかったようだ。
「そんなに理不尽な世界がほしかったのか、人間は。違うだろうに。争いのない、平和な世界を求めていたのだろうに」
「いや、そうなんだ、けど」
けど。オレには何も言えない。知っているからだ。
それがエゴだということを。
人間の生きるが故の、エゴだということを。
「人間が望んだから、世界が崩壊したのだと、言っただろう」
「それって、どういうことなんだ?」
「誰もが、一度はそう思ったからだ」
まるで、子供のつくったお話のような感覚。
「誰もが、って……」
「誰もが生きている間に、一度でも世界が崩壊すればいい、と」
異種王は息を荒げて言う。
「そのために、世界は崩壊を迎えたのだと我は教えられた」
そんなことが本当に。
何故だか、異種王の声が耳に残る。
キンキンとした金切り声のように聞こえている。
「人間よ、無いとは言わせぬぞ」
蛇に睨まれた蛙のように、オレは動けなくなった。
「……でも、それでも。オレたちは」
冷や汗なのか、脂汗なのかわからない液体に震えて、もうどうしようもなくなってしまう。
ただ、それを言うことが、オレにとっての。
「幸せに、なりたいから」
だから、何かを犠牲にして生きているのだと。
「……そうか。しかし、彼女もそう言ったんだったな」
彼女、とは一体。ふっと脳裏に浮かぶ、遼のこと。
「そうだ、遼は、どうすれば助かるんだよ」
思わず立ち上がり、異種王へと視線を向ける。
「助かる、だと?」
一瞬、異種王の目つきが鋭くなったように見えた。しかしそれも、一瞬であったのか、気のせいだったのか今となってはわからない。もう、最初に見たときの目になっていたからだ。
「助かるも何も、彼女は我らのために協力してもらったのだ」
誇りに思ってもらいたい、とは言わないが、すぐに帰そう、と異種王は言う。
何がなんだか、よくわからない。
「だから、それって、どういうことなんだよ!」
声を荒げて、オレは叫ぶ。
「……わからぬ奴だな。彼女は、我らの母となるべく試されているのだ」
その言葉にオレの思考は停止する。
どういうことだ、それ。
母となるべくだって?
奴らの母、って。
「我はもとよりこの世界、この国における最高樹齢の屋久杉より産まれし存在である」
両の手を掲げ、異種王は屋根の上に立つ。
「その母の肉体である、屋久杉が、土に還る時が近い。そのために、母の器に等しき存在を我は探していた」
まるでマンガや何かのような展開にオレは戸惑う。
「そのために、この街を利用した。見たであろう、樹木に絡まれた建造物や、自然のありし姿を」
あの、遼がいたマンションのことだろうか。
部屋の中は気味の悪い、うねる柱や、湿った空気の入り混じる場所であったこと。
「あの場所で、彼女を試していたのだが、君が連れて行ってしまった」
「連れていって、だって……?」
違う。
「あのまま、母の器に等しいかどうかを確認するまでは、おいておくつもりだったのだが」
何かが、違う。
「しかし、仕方がないな。君が次に何を言うかなんて、我にはどうとでもとれるような言葉である」
ふっと、異種王がその姿を消した。
「なっ……っ!?」
首に違和感を感じると同時に、身体が宙に浮かび上がる。
違和感というよりは、これは圧迫感だ。
誰かがオレの首を絞めている。どんどんと、その首に力が込められていく。
「本当に、彼女を必要としているのか、君は」
暗闇から、異種王がその姿を現した。
その自らの手で、オレの首は絞められて、持ち上げられている。
「くっ……!」
声が出ない。
息が、できない。
俺は、このままこいつに。
「それはちょっと、まずいよ」
どこからか聞こえてきた声に反応する間もなく、乾いた音が響く。
オレの首からは異種王の手は離れて、そのまま地面に落ちる。
かなりの身長差があったからか、地面から足先までの距離は結構あったはずだ。
しかし、それを柔らかい何かが受け止めてくれた。
「ゴホッゲホッ……つぅ……」
「あらあら、大胆な子ね」
女の声がして、手には柔らかな感触。
「無事かしら、藤宮君」
オレを抱えていたのは、ナイスバディのお姉さまだった。
柔らかいと思ったのは、オレの手がお姉さまの胸を掴んでいたからであった。
咄嗟に手を離し、言葉を探す。
けれど、うまく声が出せない。
「あらあら、顔が真っ赤よ?」
そんなことを言われても、今の状況がそれどころじゃないことは理解していた。
「かわいい子ねぇ」
咳き込んでいる間に、お姉さまはオレをぎゅうっと抱きしめる。
胸に顔が埋もれて、息ができない。
「また、貴様らか」
車の屋根の上にいた異種王が、こちらを見て言う。
「またとは何ですか、全く」
そう言ったのは、その体躯に似合わない大きさの拳銃を構えたスーツ姿の男。
「瀬尾君が怪我したのは君のせいなんだ。然るべき処罰を君に与えようと思ってだね」
「そうよー、あなたのおかげで仕事が増えちゃったんだからねー」
お姉さまがそう言うと、異種王は怪訝な声色で言う。
「怪我などさせた覚えはないのだが……」
スーツの男とお姉さまが顔を見合わせて、首を傾げる。
「……まあ、何にしても、そこの彼と、彼女を助けないわけにはいかないので」
スーツの男は拳銃をこちらに向かって投げる。
それをしっかりとお姉さまがキャッチして、オレはやっとお姉さまの腕の中から解放される。
「今日は逃がさないからね」
何だか、不穏な空気になりつつあるこの空の下。
オレは何もすることができずに、その光景をじっと見ていた。
そうして、夜は更けていった。
「ん……」
周りが明るい。
それに何だか寒い。
いつの間にか眠ってしまっていたようで、オレは目をこすりながら起き上がる。
目の前の光景に、絶句した。
昨日はそこは、平野だった。
その平野だった場所に、大きなクレーターがひとつあった。
誰の姿もない、まっさらなクレーターである。
スーツの男も、あのお姉さまも。
異種王さえも、見当たらない。
「……そうだ! 遼は!?」
まるで今まで忘れていたかのように思い出した。
眠っているはずの遼の名を叫びながら、車に乗り込む。
「遼!はる……」
そこに眠っていたのは、頬にうっすらと朱の指した少女。
寝息を立てて、眠っているようだ。
遼の額に手をあてて、体温を確認する。
人並みに、温かい。昨日の様子からは、打って変わったようである。
「……おい、遼、起きろよ」
軽く身体を揺さぶってやる。
少しして、小さな声をあげて彼女は目を開ける。
「んぅ……おはよ、けい」
起きた。まるで、何事もなかったかのように。
それを確認して、身体中のあちらこちらを触って確認する。
「ふぇ、ちょ、何するの、ねぇ……」
まだ半分寝ぼけている遼は、何も理解していない様子だ。
「……よかった、オレ、お前がいなきゃ、どうしようかって」
思わず声が漏れる。
「なに、どうしたの、けい……」
遼が言うのもかまわずに、抱きしめて言う。
「守れないって、思って、もう、駄目かもって」
遼は、何かに気づいたのか、何も言わずに抱きしめ返す。
「でも、よかった。もう、一人は嫌だから」
これからは、もっと。
「……馬鹿だね、けいは。私は君を、おいてったりしないよ?」
その言葉が嬉しくて。
でも、オレはそこから先は今は告げないでいようと思った。
しばらく、オレは遼の胸の中で、彼女が無事であったことに安堵した。
「ね、セリちゃんが見当たらないんだけど……」
「え? あ、そういやそうだな。どこ行ったんだあいつ」
二人で遅めの朝食をとりながら、セリがいないことに気づく。
二人でセリを探したけれど、どれだけ探しても見つけられることはなかった。
「どこ行っちゃったんだろ……」
はぁ、とため息をつく遼の肩を抱いて、オレは呟くように言う。
「あいつじゃなくたって、オレがいる、だろ」
ゆっくりと顔をこちらに向けて、遼はオレをじーっと見る。
「な、何だよ」
「……なーんでもないよ」
くすっと遼が笑って、オレの頬にキスをした。
そんなことは、初めてだったけれど。
この世界は、生きているのだと。
オレは理解した。
まだ、目的は終わっちゃいないから。
向かう方向は、決まっているから。
そうして、全ては進んでいく。
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地平線をゆっくりと、陽が上りつつある。昨夜の様子じゃ、彼女は平気そうな顔をしていた。厄介なことに、この朝を迎えるためにどれだけの苦労をしただろうか。少なくともひと月は働かないで済むぐらいの稼ぎにはなったはずだ。
少しぐらい贅沢しても罰は当たらないだろうと僕は思う。たまにはおいしいものを二人で食べて、笑いあっていたい。食べさせたり食べさせられたり、あまつさえ本人を食べたいだなんて、僕の口からは言えない。
いや、嘘だけど。
潮風が肌にまとわりついて、少し気持ち悪い。彼女は隣で寝ているから、そろそろ起こしてやろうかと思う。しかし、気持ちよさそうに眠る彼女を起こすのもかわいそうだ。今日ぐらいは多目に見て寝かせておいてやろう。
太陽の光でキラキラと海面が光る。思わず息を飲むぐらいに綺麗だった。それこそ、これを見るために来たのではなかったか。彼女が見たいと言ったから――いや、よしておこう。考えだしたらキリがない。
彼女はまだ寝息を立てている。可愛らしいものだ。その寝ている姿すらも、僕にとっては愛しいものだ。人形みたいな造詣で、隙がないぐらいの整い方には僕でなくとも生唾を飲むだろう。僕にも睡魔が襲ってきたみたいだ。とりあえず早く帰って、ベッドで寝よう。そう思った矢先のことだ。
「いやさ、だから謝ってるじゃん! 火薬の量がちょっと多かっただけだって」
ふと、どこからか聞こえてきたのは怒鳴っているような、そうでないような言い方の声だった。声をあげているのはびしょ濡れの男で、その近くに砂浜に座り込む女性と、もう一人男が立っていた。三人とも海にでも落ちたのかと言わんばかりの濡れっぷりである。
「もー嫌。セアトと一緒のお仕事は絶対にしない」
「謝ってるじゃんよさっきから!……なあ、お前も何か言ってやってくれよシャトー」
男が、スーツの奴に話しかける。
「正直に申し上げますと、僕も君と同じ任務にはつきたくありません」
僕はそれを、遠目に眺めていた。
不思議な三人組だった。
ぎゃあぎゃあ言ってるのが一人と、それに向かってツンとしている女の子。
他人のフリをしつつたまに口を挟むスーツの男。
朝のこんな時間から、何をしているんだろう。
思わず、笑みがこぼれる。
クスリ、と笑って、なんだかおかしくなって。
向こうからもこちらは見えているはずだ。それなのに、何も気にせずに騒ぐ彼らを見ていたら、おかしいなって思うようになった。
そうだ、もうずっと帰ってないから、一度エンリッヒの屋敷に帰ろう。それで、エンリッヒとルナリアと、僕とハイネの四人で食事をしよう。ああやって、ぎゃあぎゃあ騒げたらきっと、楽しいだろうな。
よし、そうと決まればやらねば今後に支障が出る。隣で寝ているハイネを揺さぶる。
「ハイネ、起きて。もう行くよ」
んん、と声をあげて、彼女は瞳を開く。
「ほら、帰るよ。今日は屋敷に戻るよ」
ハイネは目をぱちくりさせて、一度大きくあくびをした。
「……ねむた、い」
「そりゃそうだよね、僕も眠たいよ。でも帰るよ。早く行かないと、夜になっちゃう」
頭に疑問符をつけたハイネに説明することもなく、僕は歩き出す。
ルナリアが腕を揮ってくれるであろう食事と、ハイネの歌声を肴にいっぱいやるのもいいな。
目下、まだ騒いでいる三人組を横目に、ハイネの方を振り返る。
よたよたと目をこすりながら歩いてくる彼女の後ろに、のぼりきった朝日があった。
ああ、とても綺麗だなと僕は思った。
そうして、僕たちは帰路につく。
あの、やさしい主人と、天真爛漫なメイドのいる屋敷への帰路に。
「やれやれ、本当、君と組むのは」
シャトーがぐちぐちとセアトに言う。
「もう勘弁してくれ、謝っただろうがよ……」
もう謝りつかれてげんなりしているセアトに、更に追い討ちをかけるかのようにクロが言った。
「あ、そうだ! セアトに温泉でもつれてってもらお、ね」
首をかしげながら尋ねられて、シャトーはずれたメガネを指で直した。
「そうですね、今回の報酬で行きましょうか。セアトの奢りで」
鳩が豆鉄砲をくらったような顔をして、セアトは嘆く。
「本当、勘弁してくれ……」
しかしそれもまた、一興であるということを、セアトはまだ知らない。
朝日は、彼らの行く末を指すのだろうか。
Cross×Over!!2 です。
今回は、それから。×come dark でした。
また気が向いたら更新します。
それは春。
暖かい時が続く穏やかな日々。
私を追いかけてくる風が心地よい季節。
旅の途中で私たちが寄ったところは、私たちのいたところとよく似ていた。
習慣も、言葉も、世界の形さえもがよく似ていた。
つまるところそこは、よく似た世界だったと言える。
そんな場所で出会った人々は、私をどう捉えるのだろうか。
通りに面したカフェは、オープンテラスとなっていた。
彼女と時間を決めて、そこで待ち合わせをしていた時だった。
一人の男性が話しかけてきた。というよりは、相席を頼まれたのだけれど。
他に席があいているにも関わらず、それすらも気にせずに私はそれを承諾した。
「貧乳は感度がいいと聞くが、これはどうなんですか実際」
口をつけたばかりのまだあたたかい紅茶は、ひどく苦く感じた。
その紅茶の入ったティーカップを置き損ねて、私は紅茶を零してしまった。
「ああ、大丈夫ですか」
椅子から身を乗り出して、彼はウェイトレスを呼んだ。
呼ばれた綺麗な女性がすぐにテーブルを拭いてくれて、私は同じ紅茶をもう一度頼んだ。
「失礼、やはり女性にこんなことを聞くのは失礼だったよね。でも、気になるんだよ」
そう言ってその人は、私をまじまじと見る。
主に胸のあたりに視線が行っているのが、少し傷つく。
「しかしこれじゃ、僕が変態みたいですよね、本当」
みたいではなく変態なのではないかと、私は心の中で突っ込む。
早く開放してくれないかなこの人、というか、早くこないかな……。
「いやあ、僕の彼女はどちらかといえばあの歳にしては胸が大きいほうなので、やはり男として気になるといいますかね」
「……失礼、に、もほど、があり、ます、よ」
私はやっとそう言ってやることができた。
「ああ、いや、えっと、すいません……」
本当に謝る気があるのか、彼の表情にはそれらしきかけらも見えない。
「大体なんで、すか、いきな、り……そんなお、話を、されるのな、ら他所へ、いっ、て、くださ、い……」
この人が話し始めてから、私は何だか気分が悪い。最初はそうでもなかったのだけれど。
私が待ち合わせをしていると言うと、彼もまた待ち合わせだと言うのだ。
なら、相手が来るまでということで相席を認めたのだけれど、それは失敗だったようだ。
「はぁ……すいません」
謝っているつもりなのだろうけれど、私にはそれは理解できないものだった。
きっと謝る気がないのだとわかると、自然と涙がこぼれてしまう。
「え、あ、本当、すいません!」
私が流した涙に気がついたのか、やってしまったという焦った表情で彼はまた席を立った。
周りがざわついて、ウェイトレスがやってくる。
私は顔を手で覆って泣いていた。
なんだか嘆いている男性と、おろおろとしているウェイトレスが、更に私を泣かせる要因となっていることに誰も気づきはしない。
「っ……ぐす……はや、く……来てよ、マリィ……」
ああ、こんな時に、今すぐにでも彼女が来てくれたら。
「ハイネ!」
一瞬、周囲のざわつきがやみ、私はハッとなって顔をあげる。
周囲の視線が集まっている方向を探る。視線を右往左往させて、私は声の主を見つけた。
「なんで泣いてるんだ、誰に泣かされたんだ」
両手で大きな紙袋を抱えているマリィが、私に近づいてくる。
「マリィ……」
私は掠れた声でその人の名を呼ぶ。
片時も離れたくない、ずっと一緒にいるって決めた相手。
荷物を床に置いたのを見て私はマリィに抱きついた。
「やっぱり一緒にいればよかったよ……で、誰がハイネを泣かせたの」
マリィは私の頭を撫でながら、周囲を見回した。
「えっと……僕、です」
彼は逃げずにそこにいた。
「あんたがハイネを泣かせたのか……何をしたの?」
マリィの声が低くなっているのは、怒っている証拠である。
不謹慎かなマリィが私のために怒っていることに少し喜びを感じた。
「いや、その、えっと……」
口の中で何かごにょごにょ言って、彼はうつむいてしまう。
「腹に立つなぁ……ハイネ、何されたの、あいつに」
私に話しかける時だけ優しい口調のマリィ。
実際、少し恥ずかしくて言えないことなのだけれど……。
「え、っと……その……」
私まで口ごもってしまってはどうにもならないと思い、そっと耳うちする。
「……へぇ、それはそれは」
更にマリィの声が低くなる。
これはもう本気で怒っている証拠で、いくら私でも仲直りするまでに多大な時間を要する。
「うちのハイネによくもそんなことをしてくれたね。勿論、覚悟はできているんだよね」
笑顔だ。
これはきっと、鬼の笑みだ。
私が今までに見たことの無いぐらいの、怒っている時の笑顔。
その内側に潜むマリィの本性がそこにすべて出ていると言っても過言ではない。
それに、何だかオーラのようなものまで見える。
これから何が起こるかなんて、私でもわからない。
「ねえ、君の覚悟を見せてよ」
マリィは私を置いて彼に近づいていく。
彼はマリィに睨まれて、動くことができないでいる。
蛇に睨まれた蛙という言葉は正にこのような時のためにあるのだと理解した。
「や、その、謝るって、ほら!ごめんなさい!」
聞く耳持たぬと、身体で表すかのようにして、マリィはその声を無視していく。
後、五歩。もう彼の目の前だ。
彼はまだ動けない。
四歩。
もうここまで来たらどう足掻いても逃げられない。
三歩。
マリィはそこで立ち止まった。
逃げることのない相手を確認して、彼女は深呼吸をする。
私も、周囲の人たちもただ黙って見ているしかなかった。
「一発だけ。それだけでいいよ」
でも、と言葉は続く。
「もう二度と食べ物が食べられなくなるかもしれないよ」
彼の怯えた表情が遠目にうつる。
マリィはその右手を大きく頭上にあげた。
「優しくしてあげるから、ね」
おもいきり、振り上げられた拳が、一気に彼の頬を。
「や、やめてください!」
大きな声が響いて、マリィの動きはぴたっと止まった。
誰もがその声に驚き、目を見張る。
いつの間にか、マリィと彼の間に一人の少女がいた。
「この人が、何をしたのかはわからないけれど」
マリィは微動だにしない。
「諫火さんを殴るなら、私を殴ってください!」
それは、とてもよくできた子で、彼を想う気持ちなら誰にも負けないものを持つ少女だった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
少女は梓敦と名乗り、彼の恋人だといった。
そんな彼女と彼と、不機嫌なマリィと私の四人で話し合い、互いに非を認めるようにして。
仲直りのお茶会を、別の店ではじめた。
確かに彼の言った通り、私より胸がある。
というか、大きい。ぱっと見、Dぐらいだろうか。
「あ、の……梓敦さ、んは……おいくつ、なので、すか……?」
私の問いに、彼女は答えた。
「はい、まだ中学を卒業したばかりなので、十五です」
十五、と言ったのだろうか今。
この世界では、年齢の換算は、ええと、同じだから……。
私は自分の胸を抑えて、ずーんと気が滅入る音を聞いた。
「え、あの、どうかされましたか?」
おろおろとし始める彼女に、気を持ち直した私が対応する。
マリィはきっと、帰るまで不機嫌なままだろうし。
彼の方はといえば、何も言うまいと気まずそうな表情で座っている。
「いえ、大丈、夫」
本当は、結構ショックだけれど。
その後は少しだけお話をして、別れることになった。
もう日は暮れ始めていて、せっかくのマリィとのひと時が台無しになりそうだったのを心の中で嘆いた。
「……」
無言で歩くマリィの空いた手を握る。
いつもより、ぎゅっと握り返されて、優しさが伝わってくるのがわかる。
「好きよ、マリィ」
こちらを見ていた彼女に言った。
マリィは何も言わずにそっぽを向いたけれど、私には言わなくてもわかることだ。
何だか、綺麗な夕陽を眺めていたくなったけれど、見ながら歩いていけばいいと思った。
今日のことは、いつかあの人たちに知らせよう。
今日のことが明日へつながって、明日のことがまたその明日へとつながっていく。
日々に何があろうとも、それは否応なしに、いい方向へも、悪い方向へも続いていく。
私は今、マリィと一緒にいられる。
二人で好きなことができるのが、とても嬉しい。
きっと、今日出会った二人も、同じ気持ちだろう。
何だか歌いたい。
そう思って、私は口をひらく。
「この、せーかー、いでー」
そう。
この、世界で。
それから。×少女と、
期待を裏切るシリーズはじまりました。
感想やらは例によってコメントとかにどうぞ。
そうだ、我はこの世界に生まれてきたのだ。
それでも世界は生きているから 四塚と葵篇
夕陽を背にして、それは俺たちの前に降りてきた。
すーっと、音も立てずに地面に着地する。
片膝をついた状態で、ゆっくりと立ち上がっていく。
背格好は人の成りをしているが、その身体から匂うのは獣の臭い。
身体中がまるで、木でできているかのようないでたちで、衣服は着ていないように見える。
頭には緑色の蔦が髪の毛のように何本も、何十本も、何百本も生えていた。
二本の腕、二本の足、身体。どれもが、人と変わらぬ。
人の身体と同じ場所に、同じパーツがついている。
目も、鼻も、口も、耳もある。
顔として整った形をしていた。
それは見るものを魅了するような何かをもっていて、俺は葵の手を強く握った。
「……君たちは、どこへ行くのか」
それが喋るということに驚きを隠せなかったが、俺は答えた。
「あ、ああ、えっと……」
言葉が出ない。
そいつの声がとても人のものとも獣のものとも思えないほどの無機質なものだったからだ。
その瞳は、俺と葵を物珍しいものでも見るかのように眺めている。
「川を、遡っているの」
怖がって口も挟まないかと思った葵が、それに向かって言った。
「どうしても、川を渡って向こう側に行きたくて……助けを待っている、誰かのために、行かなくちゃならないの」
その言葉に、そいつは首を傾げていた。
「……人は何故」
空を仰ぎ、そいつは続けた。
「お互いを傷つけあうのだ……? 我は、人は愛を語りあうと聞いたのだ」
それは、誰もが一度は考えることである。
その答えは人によって様々で、俺の中での答えは、人が人であるがゆえにということだ。
「なのに、知らぬ相手を助ける、と、言うのか」
疑念の眼差しを受ける葵をかばい、俺は言う。
「俺たちは、少なくとも俺たちは人を傷つけたりはしない側の人間だ」
そうでありたい。
そうだと自分に言い聞かせたい。
ただそれだけなのに、それは単なるエゴだというのに。
そう言わなければいけない気がしたのは、何故だろうか。
「そうか、そう、なのか」
何かを考えるような仕草をとって、そいつは深々と頭を下げた。
かと思うとそいつは身を翻し、しゃがんだかと思うと高く高く空へと舞い上がった。
ずっと、ずっと高いところまで行って、見えなくなって。
気がついたらそいつは、また目の前にいた。
「川の上流に、通れる道がある」
驚く暇もなく、俺たちは呆然とする。
どこか、やさしい声色だった。
そいつの言った通りだった。
川の上流には車が通れるほどの、誰かがつくったと思われる橋があった。
上流を見ると、まだこの川は続いているようだった。
「あ、四塚、あれ」
葵が指差したのは川の中だった。
「……なんだ、あれ」
その方向にいたのは、真っ黒な塊。
オオサンショウウオだ。
「こんなところで見れるんだね」
そう言われると、確かにそうだ。
場所的に考えても、このあたりはまだ人家のある場所で、そんなに山の中というわけでも清流でもない。
珍しいこともあるのだなと、ずっと眺めていたくなった。
ふと、その存在を明らかにできない、そいつが言った。
「あれは、この世界に残る、尊き古き命。其れを、誰も害す事は出来ない」
そいつはまた空を見上げていた。
俺も葵もつられて空を見上げる。
夕陽が沈みつつあるのを、じっと見つめた。
「それじゃ、ここで」
翌朝。
俺たちとそいつは、川を境に別れることになった。
そいつを背に車を走らせていく。
日が沈んだ後、そいつと少しだけ話をした。
今のこの世界の状況、他の世界のこと、そして、そいつのことを。
世界は今、国として機能しないところが山ほどあるらしい。
それもそのはず、各国首脳は我先にと移住計画に飛びついてこの星からいなくなってしまったからだと言う。
本来ならば、国を守らなければいけないはずなのに、国のトップともあろう者達がそういう具合だと、彼も混乱するのだと言っていた。人は何故、と彼が言ったのを俺は思い出した。
他の世界には、世界崩壊の影響は出ていないらしい。
ただ本当に、この俺たちの住む世界だけが崩壊してしまったのだという。
確かに巨大隕石オルフェウスは、この星に衝突したらしい。
だが、それを食い止めようとした人物たちがいると彼は教えてくれた。
俺の脳裏に、園山の個展で出会った男の姿が思い浮かんだが、すぐにそれは記憶の彼方へと葬り去られた。
そいつらは世界を再興させようと奮闘していて、直に世界は元の世界に戻るだろうということだ。
そして、彼のこと。
彼は世界崩壊の朝に、屋久島の縄文杉のもとに産まれたらしい。
人ではない、妖でもない、精霊の一種だと言えばいいのだろうか。
木霊のようなものだと解釈すればいいのだろうか。
とにかく、彼は何でもできるのだと言った。
空を飛ぼうと思えば飛べるし、泳ごうと思えば自然と身体が水に順応する。
走ることとあらばそれこそチーターをも追い抜くというし、気配を消すこともできれば、飲まず食わずで生きていくこともできると。
獣との対話もできて、人の言葉も解す。
さすがに何を言われても驚かないつもりではいたが、これは正直驚かざるを得なかった。
これは神話でも何でもない、現実で起こっていることだというのに、俺は信じられない気持ちでいっぱいだった。
一緒に話を聞いていた葵も、驚きつつも、彼の話を黙って聞いていた。
彼はきっと、この後も世界を周りつづけるのだろう。
俺はバックミラーを覗いて、まだこちらを見ているその姿を確認した。
「不思議な、感じだったね」
葵がうきうきとした様子で言う。
「ああ、そうだな。何だか狐に抓まれたみたいだけど」
俺は言葉を返して、車を走らせる。
そう、その不思議な出会いを経て。
俺たちはある場所へとたどり着いた。
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誰かが夢を見る度に、世界がひとつずつ壊れていくものだとしたら。
俺は一体どうやってその人を救ってやればいいのだろうか。
雨も降らないような世界で、旅を続けるのは些か苦労が付きまとう。
さして問題のないように思えるが、実はそこはとても重要だった。
まず、雨が降らなければ飲料水の確保ができない。
二つ目に、作物が育たないという事実が浮かび上がる。
それらを踏まえたうえで、どうにもならないことを悔やむのは、人としてのエゴだろうか。
この世界に、人が残っていないわけではない。
とは言っても、お偉いさんと呼ばれるような人間たちは皆、この星を捨てて出て行ってしまった。
もう戻ってくることができないとも知らずに。
その事実は、俺が知ることではなかった。
きっと、本人たちも知らないだろう。
葵は俺についてきている。
俺が守らなければならない人。
最愛の彼女は、今も元気に
俺の運転する車の助手席で爆睡中だ。
それでも世界は生きているから 四塚と葵篇
さてここでひとつの謎とされているようなことに目を向けてみようかと思う。
俺は車で移動していると言ったが、その動力源となるガソリンはどうしているのかということだ。
大したことではない。ガソリンスタンドで譲ってもらっているのだ。
しかしそれも穏やかな話ではない。
まるで治安の悪い国になってしまったかのように、何かを手に入れるにはそれに値する代償を支払わなければならなくなった。
金品よりも、食べるものと交換してくれと言う人が多くなった。
未だ、葵の体をとか言う輩には出会ったことはない。
しかし、出会ったことがなくてよかったと本当に思う。
葵を守りきれるか、という不安からではなく、そうした輩を相手にした時の状況判断に欠ける部分があるかもしれないからだ。
しかし、これから出会うことがないとも限らないのだ。
世間は狭いものである。
目の前に流れる川は、俺たちの行く手を阻むようにできていた。
橋が倒壊していた。
呆然と、それを見る俺と葵。
ただ、立ち尽くすだけだった。
それでも、どうにか移動しようと俺は川沿い上っていった。
どこかで迂回するための道があるはずだ。
「ひま……」
葵がぼそっと言うのを、スルーすべきかきちんと聞くべきか。
それを悩むほどの時間はなかった。
窓の外を見ていた葵が声をあげた。
「あれ、紅葉じゃない?」
車を止めて、葵の指差す方を見る。
遠くの山中に綺麗な紅葉が見えていた。
「暑いのに紅葉? おかしなこともあるんだな……気になる?」
葵は二つ返事で返してきた。
「うん、すっごく。あれ見れば、何か、また描けるかなって」
そういうことならと、俺は車を方向転換させた。
それは見事な紅葉だった。
赤。
黄。
朱。
風が吹いて、さらさらと舞う色とりどりの落ち葉の波が俺たちを包む。
山の麓に車を置いて、のぼってきた。
中腹辺りで、目当ての紅葉を見つけたのだ。
「すごい……」
葵が感嘆の言葉を漏らす。
俺は何も言えずに、ただただそれを見ていた。
それは、果実の雨のようにも見えた。
その中で、葵がはしゃいでいる。
そういうところを見ると、本当に子供だなと思う。
果たしてこの人は、本当に俺より年上なのだろうか。
姉、いや、年上の彼女と言うのが正解なのだが。
「四塚もおいでよー」
落ち葉の上でごろごろしながら、葵が俺を呼んだ。
その行動もどうなのだろう、とは思うけれど、俺は素直に従うことにした。
「楽しかったね、四塚」
帰りの山道を二人で歩いていると、葵が言った。
まるでハイネを見ていたころのように笑っている。
「そう、だね。綺麗だったな」
それにまみれていた葵がもっと綺麗だったなんて俺の口が裂けても言えない。
「もう暗くなってきちゃったね」
陽が沈みつつある道を、ゆっくりと歩いていく。
世界が崩壊したとはいえ、こんな場所がまだあっただなんて。
立ち止まって、振り返り、もう一度山を見上げる。
夕陽が山の背にあり、まるで赤く燃えているようだった。
ふっと、違和感に気づいた。
夕陽の中に見えたひとつの黒点。
それが、段々と大きくなっている。
ぼーっとそれを眺めていた。
何もわからぬままに、ただ、ぼーっと。
俺たちはその時、この世のものとは思えぬものを見ることになった。
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