ガタン ゴトン。
列車が音を立てて走る。
界を渡るために、未だ見果てぬ線路を往く。
窓の外は、暗い空を映し出すだけだ。
一人で列車に乗るのは初めてだった。景色でも見ていれば飽きないだろうと踏んだが、30分で飽きたあたり僕は飽き性なんじゃないかと思う。
しかし、思っていたよりも時間がかかりすぎている。あの時、アヤカシが教えてくれた通りに列車に乗っていたのはよかったのだ。
思いがけないトラブルに巻き込まれた。
そのトラブルのおかげで、今のこの列車も、先程発車したばかりだ。早く、早くハイネに会いに行かなければならないのに。
そのトラブルって言うのが、これまた奇妙なものだった。僕のいる世界に幽霊鷺と言う鳥の一種がいる。幽霊鷺は、その名の通り幽霊のような出で立ちで、実体をを持たない神秘的な存在であり、ある地域では神として祭られているらしい。
その幽霊鷺は群れをなして飛ぶ。その群れをこの列車が轢いたらしい。
普段は幽霊鷺たちが避けてくれるらしいのだが、それによって一時停車を余儀なくされた。そのままでは先に行くのが困難となり、急遽別の列車が手配された。
今乗っている列車がその列車である。
あまり焦るのもいけないということらしい。僕はおとなしくしていようと決めて、ハイネのことを考えていた。
「こちら、よろしいですか」
一人の女性が、車両を跨いでやってきて言った。
見渡してみたが、ほかにもいくつか席はあいている。
断るのも失礼かと思い、僕は頷いた。
「ええ、どうぞ」
女性は軽く会釈をして、持っていた重そうな荷物を棚の上におしやった。
そして席に座って、窓の外を見つめた。
綺麗な人だ。
大人の女性って感じがする、落ち着いた雰囲気の人だ。
髪は綺麗な金色で、内側に巻かれている。
どこか、人とは違うような感じがする。
僕も窓の向こう側を見ることにした。
あとどれくらいの時間がかかるのだろう。
一刻も早く、ハイネのもとに行きたいのに。
「どこか、ご旅行ですか」
女性が僕に声をかけた。
「あ、いや、旅行って言うか、その」
まさか聞かれるとは思ってはいなかったので、答えに困った。
「私はね、家族のところへ帰るところなのよ」
その瞳は、窓の外を見つめたままだ。
「でも変なの。どこの駅で降りればいいのか、わからなくなってしまったの」
女性の瞳を覗き込む。
その言葉を発した今、その瞳に光は失われていたように見えた。
しかしそれもつかの間、すぐに女性は口を開く。
「ごめんなさいね、変なこと言っちゃって」
くすりとした表情で、女性は僕を見る。
「あなたも、帰るところなの?」
その視線は、どこか冷たいものがあったように感じた。
「はい。好きな人の、ところへ」
言ってから気づく。
なんだか恥ずかしいことに。
「それは、いいことね」
女性はそれから、ずっとニコニコしていた。
少し君が悪いと思ったのは内緒にしておいて。
それから三時間後、僕はやっと目的の駅に着いた。
女性に、ここで降りると挨拶をすると、気をつけてと言われた。
何に気をつければいいのか、よくわからなかったけれど。
古びたホームに、列車は止まった。
誰よりも早く、この列車から降りたい。
そして、ハイネを探しに行かないといけない。
それだけが今の目的。
僕を見送ってくれた、エンリッヒとルナリアのためにも。
二人に、会わせたいから。
長い長い階段を上っていく。
ひたすら上っていく。
ところどころの灯りが、消えていたりして少しだけ怖かった。
どうしてこんな地下に、列車のホームをつくったのかが気になる。
きっと、普通の人には知られてはまずい何かがあるのじゃないかと思って、考えるのをやめた。
ただ、あまり運動しない僕にとってのこの階段は、地味に辛いものがある。
そして、やっとのことで上りきった先。
ドアを開いて、その向こう側へと足を踏み出した。
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いくつもの環が重なり、気がつけばそれは一つになって解けていった後だった。
俺の隣にいるのは葵だ。
その葵の隣にいるのは俺。
二人で一つの世界を共有していて、それが永遠に繰り返されるループする毎日。
終わりのない、メビウスの輪。
世界崩壊から、一週間。
今日の日付は、ハイネがいるはずの病院を後にして、次の行き先を決め兼ねていた十月八日。
一旦家に戻るべきかとも思ったが、どこかですれ違うのもいけないので、迂闊に動くことはできなかった。
そうは言っても既にすれ違いの後だ。
俺と葵は、まだ生きていることが不思議でならない。
「どうしようか」
眠たそうな葵を横目に、車を走らせる。
辛うじて障害物のなさそうな国道をひた走ること四時間。
流石に運転しっぱなしなのも疲れてきたところだった。
「そうだ、ね……」
あくびをしながら、ぼーっと窓の外を見ている葵。
俺と会話をする気があるのかないのか、何も言わずにいる。
「……とりあえず、こっち来ても、知り合いとかいないから、戻ろうか」
路肩に車を止めて、葵を見る。
返事がないと思ったら寝てやがるよこいつ。
葵がこうも、規定の睡眠時間以外で眠るのには理由がある。
葵は芸大に通う女子大生で、スランプの時や、彼女にとっての不安要素が多数存在する時ほど睡眠をとる。
その睡眠の果てに、答えを見つけ出す彼女の、ある種の解決方法が睡眠なのである。
がしかし、寝すぎだろうと俺は思う。
でも、とても邪魔はできない。
これも惚れた云々なのかと思うと、なんだか恥ずかしくなってきた。
答えを待つのも憚られるので、一度戻ることにしよう。
向かう先は、あの古本屋。
神崎たちと別れたところ。
あそこに行けば、何かがわかるんじゃないかと今ふと思った。
考えている余裕はない、だから先に行動を選ぶ。
こういう事態の時に限っては、そうでもないのだろうが。
もっと慎重にいけるような性格をしていたらなあ、と思いながら。
十月九日未明。
イソロクさんのいる古本屋に到着。
まさかこんな夜中にやっていないだろうと思ったので、車の中で寝ることにした。
流石に店の電気はついていないし、日付も変わったばかりだったのでそこはきちんとしないといけないと思って休むことにした。
「寝ちゃうの?」
俺の顔を覗きこむ葵。
「……や、だって、眠いし、流石に運転しっぱなしは疲れたよ」
なんだか構ってほしそうな目で見られている。
こういうのは早めに対処しないと、後が厄介だとわかってはいるのだが。
「つまらないわね……」
そのままいじけて、座席に戻る。
まあ、明日起きてから構ってやることにして。
俺は今は、身体の疲れを癒すために瞳を閉じた。
俺たちが家を出たのは、誰でもない誰かを救うため。
その予定だったのだが、これといって困っていそうな人は見当たらなかったのが答えだった。
きっと、みんながみんな困っているなんてことはない、若しくはもう既に助け合っているのだろうと思った次第だ。
しかし、こんなに早く足をこの地域で留めることになろうとは、誰が予想しただろうか。
まだ、自宅からそんなに離れていないようなところだし。
状況的に言えば、ドライブに行って帰って来た、みたいなそんな。
俺をゆっくりと睡魔が襲う。
意識が遠のいていくのを感じながら、流れに身を任せた。
朝。
流石に開いているだろうと思って店を訪ねた。
案の定イソロクさんはいた。
「おお、無事だったか君たち」
にこやかな笑顔がまぶしい。
「ええ、まあ」
「よかったな……姉さんの方は、なんだか眠たそうだな」
葵は俺の後ろで、俺によりかかっていた。
半分寝ているような感じで、どうも要領を得ない返事しかしない。
イソロクさんは、奥で寝かせてやろうと言って俺たちを案内してくれた。
案内された部屋に葵を寝かせて、俺は店に戻った。
「あの、イソロクさん」
古そうな装丁の本を閉じて、彼は顔をあげる。
「今この世界が、どうなっているかが気になるのだろう」
あれ、俺念かなにか送ったか、と思いながら頷く。
「そうだな、オルフェウスのことは知っているか」
「はい、巨大な隕石だとニュースで聞いたぐらい、ですが」
イソロクさんは頷き、後ろの本棚から一冊の本を抜き出してあるページを開いた。
「そう、これがオルフェウスだ」
その開いたページを見せてもらい、俺は息を飲む。
天体図の描かれた本だった。
その図の中に、銀河系の様々な星が描かれており、イソロクさんが示した場所にオルフェウスの名が書かれていた。
「これがついこの間この地球に墜落した隕石、オルフェウスだ」
その場所は、太陽と月の真ん中あたり。
「この本自体は相当昔のものなんだが、どうもこの本が存在した時代からオルフェウスは確認されていたようだ」
「え、それって、どれぐらい昔なんですか?」
咳払いをして、イソロクさんは声を整える。
「ざっと、百五十年ほど前かな」
えっ、という顔をしてしまった。
「元々、小さな星の屑だったんだ。それが今、百五十年という年月をかけていくつもの小さな屑星をその身に纏わせて、こうして堕ちてきたというわけだ」
何だ、この話はそんな話だったのかと俺の中の誰かが言った。
正直俺も吃驚だ。
「まあ、被害が少なくてよかったみたいだがな」
ガハハと彼は笑った。
「え、でも、そしたら地球の外に逃げた人たちはどうなって」
笑うのをやめてイソロクさんは苦虫を噛み潰したような表情になる。
「……彼らは、できもしていない火星の住居を目の前にして息絶えるだろう」
息絶える、ってことは、つまり。
「死ぬ、ってこと、ですか」
無機質な空間がそこに出来上がったかのように。
「ああ、そういうことになる」
イソロクさんは本を閉じて、天井を仰いだ。
「初めから、できるはずがなかったんだよ、地球外逃亡だなんてな」
背もたれのある椅子にもたれかかって、彼はタバコをとりだした。
「この星の、この地に生まれたからには、ここで死にたいと思うんだがな」
どうやら、世間のお偉方はそうでもなかったらしい。
「とんだ茶番だ。奴らは地球が無事かどうかもわからないところにいる。情報は手に入らないし、連絡が来ることもない」
口に咥えたタバコに火をつけて、一度ふかし煙を吐いた。
「やがて食料も尽きる。今火星につくってるってえ話の、居住施設なんざ、完成に何年かかることやらな。できねえことはねえだろうが、その前に燃料すらなくなる。仮に間に合ったとしても、欠陥でもありゃ一瞬でお陀仏だよ」
煙が充満して、少し煙たい。
俺は、それを聞いているだけしかしなかった。
その後、葵が起きてきたので他の世界のことも少しだけ聞いてみた。
神崎たちは無事に次の世界に着いたらしいし、地下のホームは比較的安全らしい。
だが、このような状況で、こちらに来るような輩は滅多にいないという話だった。
俺と葵は、しばらくここに泊まっていくことにした。
何も決まらないまま移動するよりは、そのほうがいいだろうとイソロクさんは言ってくれた。
幸い、本がこれだけあれば葵も俺も退屈はしないだろうし、ひょっとしたら彼女のスランプもどうにかなるんじゃないかと思った。
でも、安心して過ごすことなんて、できっこないんだということに俺たちは気づく。
翌日、十月十日。
天気は相変わらずよかった。
葵は今日はずっと起きていた。
この調子なら、きっとまた何かをつくれるのではと俺は期待していた。
しかし、ある出来事がこのゆるい時間を崩したのだ。
それは、出会える場所で出会うことのできなかった少女。
水嶋ハイネとの、奇妙な再会から始まった。
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ああ、そこにいるんだね。
やっと出会えたんだ。
「こっちにおいでよ」
僕は君を呼んで手招きをする。
君は笑顔で僕を見ている。
嬉しくて、涙が出そうで。
来ないなら、僕が。
君の元へと歩き出すけれど、距離はどれほども縮まない。
どれだけ手を伸ばしても、届かない。
走り出しても、遠くなるばかりで。
僕はどうすれば。
目覚めた時には、もう昼を過ぎていた。
夢だったなんて思いたくない。
けれど、夢であることに違いはない。
僕はそれを手に入れるために、彼女のいる世界に戻るための方法を探して。
辿りついた先が、この町外れの廃墟。
今はもう、街中の灯りは消えてしまっている。
僕は彼女、アヤカシに言われたとおり、別れを――
「お別れは、してきたのかしら」
不意に背後から聞こえてきた声に飛び上がる。
「あら、驚かしちゃったかしら」
そっと振り向くと、黒い服を着たアヤカシが月を背に立っていた。
見たことのない服だった。
色鮮やかに、赤だの白だの色が使われており、とても重たそうな服だった。
ところどころに花の模様があって、腰には帯を巻いている。
きっと、アヤカシの世界の服なんだろう。
「それで、お別れは? きちんとしてきた?」
服に見蕩れていた僕は、その言葉を聞いてハッとする。
「……してきたよ」
ばつが悪そうに僕は言う。
別れを告げた、昼間の様子を僕は思い出していた。
「え? 帰る方法が見つかったって?」
エンリッヒは口に咥えようとしていた葉巻を落とし、昼食の用意をしていたルナリアが振り向く。
「うん、実は、さ」
僕はアヤカシから聞いた話を二人に話した。
「そうか、それはよかったよ、うん」
はは、と苦笑いしながら、落とした葉巻を拾って火をつける。
かちゃかちゃと食器がテーブルに置かれる音がする。
「それで、いつ戻ることにしたんだい」
これについては、真実を伝えるほどの勇気がなかった。
「……明日の朝、陽が上るまえにここを出るよ」
エンリッヒは、僕の言った言葉を口の中で繰り返すようにして僕を見た。
「よし、なら今夜の夕飯は豪勢にいこうじゃないか。なあ、ルナリア」
ルナリアは、僕を見ても何もいわない。
目が合ったけれど、すぐに逸らされてしまった。
「……ルナリア」
僕が呼ぶと、ルナリアが答える。
「……ちょっと、バケットを切らしていたので、買い物に行ってきます。すぐ、戻りますから」
声が多少、上ずっているのがわかる。
「あ、なら、僕が行くよ、ね」
僕はルナリアの顔も見ずに、外にとびだした。
突然、だもんなあ。
わかっていたとはいえ、こうも簡単に戻る方法が見つかるだなんて言われるとは思ってなかっただろうに。
二人は応援してくれると言ったけれど。
別れるのは、辛いことだってことを僕はよく知っているから。
そんな簡単なことじゃないってことぐらい、理解しているんだ。
あまり長く戻らないと心配すると思って、十五分ぐらいで戻ってきた。
「ただい、ま……」
屋敷のドアを開けて、二人のいる部屋へと戻る。
エンリッヒも、ルナリアも変わった様子も何もなかった。
ただ、ルナリアは僕を見ようとはしなかったし、話すらしてくれなかったことだけが悲しかった。
そうして、昼食も終わって、そのままゆっくりと過ごした。
僕は手紙を書いた。
二人にあてて、一通の手紙を。
夜は、これまでに食べたことのないぐらいの量の食事を出された。
そして、笑っておわることにした。
これ以上、二人を悲しませちゃいけないと思ったからだ。
きっと、エンリッヒもルナリアも寝入ったと思う。
それぐらいの時間に、僕は服を着替えだした。
「……うん」
窓の外は暗い。
街灯だけが、廃墟までの頼りである。
手紙はポケットにしまって、屋敷の玄関にでも置いていこう。
そっとドアを開けて、部屋を出る。
エンリッヒの寝室の前を通って、屋敷の玄関まで来た。
ここまで来れば大丈夫だろうと思って、背後の気配に気づく。
勢いをつけて振り向くと、人影が僕の後ろに立っていた。
気づいた瞬間、その人影に抱きしめられる。
「え、ちょっと、え?」
その身体の小ささ、やわらかさかとにおいから、ルナリアだということがわかる。
僕は戸惑って、何を言えばいいのかわからなかった。
「まったく、君という子は」
その向こうから声が聞こえる。
エンリッヒだった。
「エンリッヒ……どうして」
動けない僕を見て、彼は笑ったように見えた。
「僕やルナリアを心配させたくなくて、明日の朝だって嘘をついたことぐらいわかるんだよ」
とても優しい口調でエンリッヒは言った。
「……ごめん、なさい」
謝らなくていいよ、とエンリッヒは言った。
「マリィがしたいことを、させてやるのが一番だって、ルナリアと話し合ったんだよ」
僕を抱いているルナリアが、やっと顔をあげて僕を見てくれた。
「お嬢様……」
泣いているんだ、彼女は。
「向こうへ、行っても、お元気でいてください……」
それ以上は続かなかったのか、ルナリアは再び僕を抱きしめた。
「楽しかったよ、マリィ」
エンリッヒがドアを開けて、待ってくれている。
ルナリアは僕からやっと離れてくれて、エンリッヒの下へと小走りでいく。
「君が居た生活は、とてもいいものだった。いつか、また会えることを信じているよ」
エンリッヒが笑い、ルナリアも涙を流しながら微笑んでくれた。
僕は、胸の中に熱いものを感じていた。
ポケットに入れた手紙を出して、渡した。
「僕が、口からじゃ言えないこと、書いてあるから」
二人を見て、僕は言う。
「ありがとう」
僕は二人と少しの間抱擁を交わした。
そして、開けられたドアから走り出した。
振り返ることなく。
決して、振り返ることなく。
気づいていた。
僕の頬を伝うのが、涙だということぐらい。
わかっていた。
こうなることぐらい。
だのに。
今は、悲しいのと、嬉しいのとが半々で。
ただ今は、それを求めて走り出したのだから。
留まることがないように。
止まることが決してないようにと。
祈りを込めて、走り続けた。
「さて、じゃあ説明するわ」
アヤカシは僕を見据えて言った。
「もう少ししたら、ここに列車がくるの。それに乗って、三つ目の駅、吼千峡で降りなさい」
「え、列車って……ここ線路ないじゃん」
素直な感想を言うと、アヤカシがにこりと笑って言った。
「もうすぐわかるわよ」
なんだろう、この人の瞳を見ると、魅入られるようなそんな。
「それで、水嶋ハイネを助けてくれるのよね、あなたは」
ハイネ。
助けるってのは、どういうことなのだろうか。
「それって、どういう意味なの?」
怪訝な顔をしてしまったがわかったが、僕は別に気にしない。
「ええ、そうね。話をしなければいけないわね」
僕は息を飲んだ。
「彼女ね、きっと、大変な目にあっていると思うのよ。だから、そこから引き揚げるつもりで、なのだけれど」
「……どういうこと?」
おかしなことを言う人だと思ったが、僕は聞き返した。
「勘よ、女の」
勘でハイネを救えだとか、おかしなことを言うな……。
「あなたじゃなければいけないのよ……来たわよ」
彼女が空を見上げたので、僕もそれに倣った。
闇の中から、一筋の光が僕たちを照らした。
それは、雲間を縫って、空を走っていた。
ゆっくりと、僕たちの前に降りてくる列車。
「開いた口が塞がらないっていうのは、正に今のあなたのことを言うのよ」
驚いてしまって、何も言えなかった僕を見て彼女はそう言った。
列車は止まり、中からぞろぞろと人が降りてきた。
これは夢でも何でもない、さながら、銀河鉄道のようだ。
「じゃあ、よろしくお願いね」
列車に乗り込んだ僕は頷いていた。
「うん。ハイネの為だったら、僕はなんだってできるし、それに」
あまり要領を得ない話だったけれど、今の僕ならとにかく何でもできる気がした。
どうしたんだろう、この感覚。
不安よりも、期待と希望に満ちている。
「ハイネが死ぬぐらいなら、世界なんていらない!」
ハイネがいない世界なんて僕には考えられないのだから。
つづく。
始めに神ありき。
次いで、その神を支えるべく子等ありき。
その下に畜生の類ありき。
そしてこの自分がある。
月の下で産声をあげて、混沌の中で育ち、獣畜生の乳を啜り育った。
その獣たちは我を神と崇め、奉らんとした。
産まれた瞬間から既に、神という手の届かない存在とされてしまった。
幾日も経たぬうちに、母の元から離れ、あらゆる地を飛び回った。
ガラクタしかない地に足を踏み入れたのは初めてだった。
母の胎内で覚えたことは、すべてが役にたつものではなかったが、それでもこの世界に産まれてきた我にとっては、大きな力添えとなっていた。
この、国というなのただの地を、まずは端へと行くことにした。
体が焼かれるような暑さを感じはしたが、それでも我の体は平気なようだ。
人というものを初めて見たおかげか、些か興奮してしまったようだった。
何も知らない我にとって、この人というのは遊び相手になってくれたようだった。
日が経ち、朝日が昇り、夜が明けて、それが何度続いたのかもわからないほどの間、我はその人とじゃれあった。
遊び過ぎて疲れて、その場に倒れるようにして眠ったのまでは記憶している。
目を覚ました時には、誰もいなかった。
また、月が頭上を覆っていた。
その月の姿を見るや否や、我は叫び声をあげていた。
イエ、という名の人の住処を見たいがために、いろいろなところを飛び回った。
大きなものや、まるで檻のようなもの、奇妙な形のものがいくつかあった。
飛び回り疲れ、ある崩れかけたイエの上に降り立った。
虫たちが鳴くのを聞きながら、見渡す限りの崩れたイエを眺めていた。
この世界は、どうしてこんなにごみごみとしているのだろうというのが素直な感想だった。
母から聞いたことだけでは、情報が偏ると理解している。
それを、周りを見ていると解釈するのであれば、それはそれでいいだろう。
我は何のためにこの世界に生まれてきたのかがわからない。
世界が広く、まだ何もないころの話を母から聞いた。
それはとても幽玄な風景が続いていたと。
だのに、我が見たかったのはその風景だというのに。
今のこの世界は。
ぴりぴりと風が揺らいだ。
頭上で雲が渦巻いているのがわかる。
きっと、我が願えば何かが。
ふと泣き声が聞こえるのに気づく。
泣き声のもとがどこなのか理解するのに、数秒もかからなかった。
地に足をつけ、崩れかけたイエの中へと侵入する。
窓というものがあるらしいのだが、このイエは伽藍としていた。
昔からこの国に存在する、そういった趣の建物だということはわかる。
泣き声の主は、人の子だった。
まだ産まれて間もないのだろうか。
二、人、という数え方なのだったか。
我を見て、その赤子は泣き止む。
何か不思議なものをみるような目で、我を見つめている。
その小さな指が、我に伸ばされる。
二組の双眸が、我を見ている。
この暗闇で、見えるのかと問いただしたいが、我は人の言葉を解しても、話すことはできない。
その子等の、眼差しが。
不思議なものだと我は思う。
この世界に産まれて、母と呼ばれる大樹のもとで一晩過ごしただけなのに。
死に絶えたような世界で、我を必要としている生命があるのだろうか。
雲のない空を、自由に飛びまわれるのが今はただ、我を満たしていた。
「ハイネ」
名を呼ばれることは怖くない。
怖いのは、好きな人に呼ばれなくなった時だ。
私はハイネ。
あなたが、あなたがたが呼ぶ、私という名の一種の個である。
私という名の一つの存在である。
冷たい風、遠い空、夕陽の沈む丘、郊外にある一軒家、誰も知らないあの山の向こう。
誰も知らない世界。
それぞれに名があり、私にもその名がある。
「水嶋ハイネ」は私でありながらも、人々がつくりあげた妄想の産物の私である。
私なのに、私じゃない。
それは果たして本当に、私と言えるのだろうか。
十月十日。
葵さんのおうちに、二晩泊まらせてもらった。ご両親はとてもよくしてくれて、私はとても助かった。
有名人とはいえ、見ず知らずの人間を家に泊めるなんて、どれだけ優しい人たちなんだろうか。悪く言えば人がよすぎる。私を信じてくれているなんて、私にはそれが信じられないのに。
ぼーっとしながら、夜空を眺めた。
雲がどんよりと空を覆い、私を照らす光なんてどこにもなかった。まず、自分自身の存在を確かめる。
歌う私以外のものは、存在しないのだと仮定した時、私は本当にどこに存在するのだろうと気が気でなくなってしまう。
願えるなら、私を。
誰か私を。
葵さんのご両親は、いつまででもいていいと言ってくれた。
でも、それに甘えてばかりいる訳にはいかないのだ。
私はきちんとお礼を言って、また来ますと告げてそこを出た。
行く宛はないが、どこかに行けば何かをって思ったから。
私の歌で、誰かが救われるなら。
歌うことさえできればいい。
この身が例え朽ち果てようとも。
暴漢に襲われて慰み者にされようとも。
歌う為の、声さえあれば。
私は何だって構わないから。
腕だって、足だってなくてもいい。
それで誰かが救われるなら。
忘れてしまった誰かを思いだせないぐらいなら、この身がどうなっても。
失う前に、自ら絶てばいい。
いつか私の身体は衰えてしまうのだ。
醜い姿を晒したくない。
たとえ相手が誰であろうとも。
「水嶋ハイネ」は、若くして死ななければならない。
そう考えながら。
私はふらふらと歩き出した。
兄様を好きだった時とは、状況が違うようだ。今は兄様をずっと見ていたいとは思わない。
少し前なら、近くにいなければ不安で仕方なかった対象。何故か今は気になることすらない。移り気の多い私のことだから、きっと他の何かに気が移ってしまったんだろう。
ただ、その対象が何なのかが思い出せない。
私は一体どうしてしまったのだろうか。
崩れた塀の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。ひょいと顔を覗かせると、少し崩れた家屋の、縁側に面した部屋が見えた。その部屋の中のベビーベッドに、二人の赤ん坊が寄り添うように横たわっていた。
赤ん坊を見るのは初めてだ。周りにいた人たちは、赤ん坊とは縁のない生活をしていたから、私は話に聞くぐらいしかなかった。
二人の赤ん坊が泣いている。
その様子を見ていると、部屋の奥から一人の女性が出てきた。
少しやつれてはいるが、上品そうな女性だった。
二人の赤ん坊を抱き上げ、あやしはじめる。それでも泣き止まない様子に、私はあることをした。
私の腕の中ですやすやと眠る赤ん坊。話を聞いたら、双子なのだそうだ。
「ありがとうね、おかげで助かったわ」
女性がそう言って、お茶をだしてくれた。
「あ、おかまいな、く……」
遠慮しないでと言われ、ぺこりと頭をさげた。
よく見れば、大きなお家だった。
母親だと思っていた女性は、この赤ん坊の祖母にあたるらしい。まだ若くみえるから、そうはみえないと驚いた。
私は、泣き止まない赤ん坊を見て、いてもたってもいられなくなってしまった。
だから私は。
歌った。
声の限りに、私は歌った。
気がつけば、赤ん坊は泣き止み。
まだこの地域に残っている人たちが集まって来ていて。
その場は拍手と笑顔で溢れた。
今まで誰にも言ってこなかったことだが私が歌い、それを聞いた誰かが笑う。その笑顔を見ると、背筋がゾクリとするのだ。
そう、私の歌を聞いて笑顔を生み出す人を見ていると、背徳的な快感を感じるのだ。
それも、とてつもないものを。
ただ、それを表に出すほど私は変態ではない。
この時ばかりはそう、純粋に周りの状況が飲み込めていないのもあったのだが。
何だか照れくさくなって俯いていると、 家屋の中から声をかけられた。
赤ん坊を抱いた女性が、よかったらあがっていってと。
その言葉に甘えて、私は今こうしているわけだ。
世界が崩壊して、まだ一週間と経っていない。
そんな日々の中を、私はゆるりと過ごしてきた。
何かを探すために。
今こうして、ここにいられるのは、誰がいたからだろうか。
腕の中に抱えている赤ん坊は、すやすやと寝息をたてていて、時折その小さな手を握ったり、ひらいたりしている。
大変だと思った。
この世界で、こうして人にお茶を出す余裕があるなんてお世辞じゃなくても思えもしないのに。
他人に何かを振舞うことができるということは、よほどの蓄えがあるか、もしくは裏があるか。
私の思考は前者で留まっていて、優しい人だなと感じておわりだった。
チチチと鳥の鳴き声が聞こえてきた。
庭先の木に留まり、きょろきょろと辺りを見てまた飛び去った。
少し暑いけれど、この辺りはいたっていつもどおりなのだと女性は言った。
ベビーベッドの向こう側に、仏壇があるのを見つけた。
綺麗な女性の遺影が飾ってあり、両脇には綺麗な菊の花が飾られている。
きっとこの双子の母親だろう。
可哀想に、と思うことはないけれども。
ただ、強く生きてほしいと、私は感じた。
せめて、この子たちがいつまでも笑っていられるような、そんな歌を歌えればと唐突に思った。
お茶を少しだけいただいて、私はそこを出た。
辺りは夕方で、もう陽も暮れ始めている。
私は遠くを見つめて、何をすればいいかを考える。
あれもしたい、これもしたい。
でも、一番最初にやらなければいけないのは、そう。
失ってしまった何かを取り戻し、そして。
全てを打ち明けなくてはならない。
とりあえず、歩いてみよう。
仮令、道が見えなくとも。
歩けば前には進むのだから。
歩いてたどり着いた先は、古びた建物の前。
「店…書、古……本山……?」
と口に出してみたものの、読み方がわからない。
ううん、と唸っていると、建物のドアが開いた。
「お、お客さんかい、こんな時間に」
ふらふらと近づいてくるのは、身体の大きなおとこのひと。
私の知っている誰よりも大きくて、見上げないと顔が見えない。
そんなおとこのひと。
私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
「ん?ああ、すまないな、驚かせてしまったようで」
その人は私の前に座り込んで、私を立たせようとする。
腕をがっしりと掴まれて、思わず私は悲鳴をあげた。
「い、やぁぁあああぁぁぁぁあぁぁあぁ!」
一瞬驚いた顔をして、おとこのひとが固まる。
私はその手を振り払って立ち上がり、暗がりの中へと走り出した。
振り返ることはなく走り続けた。
どこまで走ればいいだろう、と思った矢先。
人気のない、車も通らないような割れた道路を横切ろうとした時だった。
右から、大きな光が私を照らして。
大きな音と共に、私の身体は衝撃を受けて。
そして、そのまま私は――。