「ハイネ」
名を呼ばれることは怖くない。
怖いのは、好きな人に呼ばれなくなった時だ。
私はハイネ。
あなたが、あなたがたが呼ぶ、私という名の一種の個である。
私という名の一つの存在である。
冷たい風、遠い空、夕陽の沈む丘、郊外にある一軒家、誰も知らないあの山の向こう。
誰も知らない世界。
それぞれに名があり、私にもその名がある。
「水嶋ハイネ」は私でありながらも、人々がつくりあげた妄想の産物の私である。
私なのに、私じゃない。
それは果たして本当に、私と言えるのだろうか。
十月十日。
葵さんのおうちに、二晩泊まらせてもらった。ご両親はとてもよくしてくれて、私はとても助かった。
有名人とはいえ、見ず知らずの人間を家に泊めるなんて、どれだけ優しい人たちなんだろうか。悪く言えば人がよすぎる。私を信じてくれているなんて、私にはそれが信じられないのに。
ぼーっとしながら、夜空を眺めた。
雲がどんよりと空を覆い、私を照らす光なんてどこにもなかった。まず、自分自身の存在を確かめる。
歌う私以外のものは、存在しないのだと仮定した時、私は本当にどこに存在するのだろうと気が気でなくなってしまう。
願えるなら、私を。
誰か私を。
葵さんのご両親は、いつまででもいていいと言ってくれた。
でも、それに甘えてばかりいる訳にはいかないのだ。
私はきちんとお礼を言って、また来ますと告げてそこを出た。
行く宛はないが、どこかに行けば何かをって思ったから。
私の歌で、誰かが救われるなら。
歌うことさえできればいい。
この身が例え朽ち果てようとも。
暴漢に襲われて慰み者にされようとも。
歌う為の、声さえあれば。
私は何だって構わないから。
腕だって、足だってなくてもいい。
それで誰かが救われるなら。
忘れてしまった誰かを思いだせないぐらいなら、この身がどうなっても。
失う前に、自ら絶てばいい。
いつか私の身体は衰えてしまうのだ。
醜い姿を晒したくない。
たとえ相手が誰であろうとも。
「水嶋ハイネ」は、若くして死ななければならない。
そう考えながら。
私はふらふらと歩き出した。
兄様を好きだった時とは、状況が違うようだ。今は兄様をずっと見ていたいとは思わない。
少し前なら、近くにいなければ不安で仕方なかった対象。何故か今は気になることすらない。移り気の多い私のことだから、きっと他の何かに気が移ってしまったんだろう。
ただ、その対象が何なのかが思い出せない。
私は一体どうしてしまったのだろうか。
崩れた塀の向こうから、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。ひょいと顔を覗かせると、少し崩れた家屋の、縁側に面した部屋が見えた。その部屋の中のベビーベッドに、二人の赤ん坊が寄り添うように横たわっていた。
赤ん坊を見るのは初めてだ。周りにいた人たちは、赤ん坊とは縁のない生活をしていたから、私は話に聞くぐらいしかなかった。
二人の赤ん坊が泣いている。
その様子を見ていると、部屋の奥から一人の女性が出てきた。
少しやつれてはいるが、上品そうな女性だった。
二人の赤ん坊を抱き上げ、あやしはじめる。それでも泣き止まない様子に、私はあることをした。
私の腕の中ですやすやと眠る赤ん坊。話を聞いたら、双子なのだそうだ。
「ありがとうね、おかげで助かったわ」
女性がそう言って、お茶をだしてくれた。
「あ、おかまいな、く……」
遠慮しないでと言われ、ぺこりと頭をさげた。
よく見れば、大きなお家だった。
母親だと思っていた女性は、この赤ん坊の祖母にあたるらしい。まだ若くみえるから、そうはみえないと驚いた。
私は、泣き止まない赤ん坊を見て、いてもたってもいられなくなってしまった。
だから私は。
歌った。
声の限りに、私は歌った。
気がつけば、赤ん坊は泣き止み。
まだこの地域に残っている人たちが集まって来ていて。
その場は拍手と笑顔で溢れた。
今まで誰にも言ってこなかったことだが私が歌い、それを聞いた誰かが笑う。その笑顔を見ると、背筋がゾクリとするのだ。
そう、私の歌を聞いて笑顔を生み出す人を見ていると、背徳的な快感を感じるのだ。
それも、とてつもないものを。
ただ、それを表に出すほど私は変態ではない。
この時ばかりはそう、純粋に周りの状況が飲み込めていないのもあったのだが。
何だか照れくさくなって俯いていると、 家屋の中から声をかけられた。
赤ん坊を抱いた女性が、よかったらあがっていってと。
その言葉に甘えて、私は今こうしているわけだ。
世界が崩壊して、まだ一週間と経っていない。
そんな日々の中を、私はゆるりと過ごしてきた。
何かを探すために。
今こうして、ここにいられるのは、誰がいたからだろうか。
腕の中に抱えている赤ん坊は、すやすやと寝息をたてていて、時折その小さな手を握ったり、ひらいたりしている。
大変だと思った。
この世界で、こうして人にお茶を出す余裕があるなんてお世辞じゃなくても思えもしないのに。
他人に何かを振舞うことができるということは、よほどの蓄えがあるか、もしくは裏があるか。
私の思考は前者で留まっていて、優しい人だなと感じておわりだった。
チチチと鳥の鳴き声が聞こえてきた。
庭先の木に留まり、きょろきょろと辺りを見てまた飛び去った。
少し暑いけれど、この辺りはいたっていつもどおりなのだと女性は言った。
ベビーベッドの向こう側に、仏壇があるのを見つけた。
綺麗な女性の遺影が飾ってあり、両脇には綺麗な菊の花が飾られている。
きっとこの双子の母親だろう。
可哀想に、と思うことはないけれども。
ただ、強く生きてほしいと、私は感じた。
せめて、この子たちがいつまでも笑っていられるような、そんな歌を歌えればと唐突に思った。
お茶を少しだけいただいて、私はそこを出た。
辺りは夕方で、もう陽も暮れ始めている。
私は遠くを見つめて、何をすればいいかを考える。
あれもしたい、これもしたい。
でも、一番最初にやらなければいけないのは、そう。
失ってしまった何かを取り戻し、そして。
全てを打ち明けなくてはならない。
とりあえず、歩いてみよう。
仮令、道が見えなくとも。
歩けば前には進むのだから。
歩いてたどり着いた先は、古びた建物の前。
「店…書、古……本山……?」
と口に出してみたものの、読み方がわからない。
ううん、と唸っていると、建物のドアが開いた。
「お、お客さんかい、こんな時間に」
ふらふらと近づいてくるのは、身体の大きなおとこのひと。
私の知っている誰よりも大きくて、見上げないと顔が見えない。
そんなおとこのひと。
私はへなへなとその場に座り込んでしまった。
「ん?ああ、すまないな、驚かせてしまったようで」
その人は私の前に座り込んで、私を立たせようとする。
腕をがっしりと掴まれて、思わず私は悲鳴をあげた。
「い、やぁぁあああぁぁぁぁあぁぁあぁ!」
一瞬驚いた顔をして、おとこのひとが固まる。
私はその手を振り払って立ち上がり、暗がりの中へと走り出した。
振り返ることはなく走り続けた。
どこまで走ればいいだろう、と思った矢先。
人気のない、車も通らないような割れた道路を横切ろうとした時だった。
右から、大きな光が私を照らして。
大きな音と共に、私の身体は衝撃を受けて。
そして、そのまま私は――。