一体いつになれば、雨は止むのだろう。
もう、四日も歩きっぱなしだった。
途中、泊めてくれる家を探しては、泊めてくれるように頼んだ。
心優しい人ばかりではなかった。
「知らない奴に食べさせるものはない」
とか、
「いくら有名人だからって、なあ」
って言われてきた。
辛かったけれど、私は我慢以外の方法を知らなかった。
もう少し、要領よく生きることができればいいのにと、この時ほど思ったことはない。
だから、私は口ずさむ。
「この、せーかー、いでー」
人の姿なんて、滅多に見ないから。
追いはぎや、泥棒みたいなのはいない。
大好きな兄様もいない。
夢に出てくる、あの子はだあれ?
世界が崩壊した日、私は病院のベッドの上にいた。
ベッドを、半分だけ空けた状態で寝ていたようだった。
おかしいと思ったのは、すぐだった。
私がつけている、ピアスと、ベッドの空いた側の温もり。
私のものではない、香水の香り。
何か、大切なものを失った気がするのだ。
それが何なのか思い出せない。
病室自体も、私の病室ではなかった。
病室の名札すら、かかれていなかった。
一体、どういうことなのだろう。
私はまず兄様を探すことにしたのだ。
そうすれば、何かがわかるかもしれないと思って。
葵さんには、連絡がつかない。
きっと、この世界崩壊の余波で電子機器の一部は壊れてしまったのだろう。
とても心細かった。
私は、一人だった。
兄様が、私をすくってくれたから、リリと出会うことができた。
そうして、リリは私から兄様をとろうとした。
そんなリリを許せなくて、私はリリを殺して、食べて。
そうして、自らの喉を切り裂いた。
それが、歌姫としての末路。
辛うじて命は助かった。
でも、今度は声が出せなくなってしまった。
入院することになった。
ほとんど隔離状態での、治療。
私は狂う寸前だった。
しかし、部屋の抜け出し方を覚えてからは楽しくなって、狂うだなんてことはなくなった。
ある日、一人の子が運ばれてきた。
どうも、浜辺で倒れていたらしい。
その子が気になって、見にいった。
……そこまでしか、覚えていない。
世界崩壊の、影響が人体に及ぼした影響が、これなのだろうか。
私は何か大事なことを忘れてしまったような気がする。
まるで、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚。
寂しくてたまらない。
私がそこにいることを、いるだけで理解してくれていた誰かのことを。
その人のことを忘れてしまっているだなんて。
辛い。
辛くてもう、死んでしまいそうだ。
でもそれじゃあ意味がない。
私はその誰かを探すために、歩き出した。
「こ、の、せーか、いーでー」
歌を歌う。
このフレーズだけが、頭に残っていた。
おかしなことに、咳も止まった。
相変わらず、変なところで言葉が切れるのは癖だ。
こればかりはもう治しようがない。
「本当、どこに、行った、のかしら」
歩いて歩いて、ずうっと歩いて。
葵さんのおうちに行こうと決めた。
何か、手がかりがあるかもしれないから。
それが、十月八日のことだった。
雲ひとつない空を見上げては正面を見る。
歩くスピードが少しだけ周りと違うせいで、私は置いていかれてしまった。
それが、小学校にあがってすぐのこと。
誰も私を見てくれなかった。
家族はもとより、友達なんてできやしなかった。
家の中では誰よりも兄様が一番、私を見ていてくれた。
父も母も、いい人たちだった。
今は、私と兄様の帰りを待ってくれている。
それでも私は、置いていかれてしまった。
歌うのは好きだったから。
一人で居る時はずっと歌っていた。
寂しいことなんか、蹴散らすぐらいの勢いで。
いつか、誰かが見てくれることを信じていた。
それを見てくれて、手を差し伸べてくれたのが兄様だ。
それから私は、兄様のいるバンドに入ることになった。
そうして私は、水嶋ハイネを名乗ることになった。
とは言っても本名だ。
可愛らしい名前なんて、思いつくことがなかったし。
そのころは、兄様だけを見ていた。
兄様に誉めてほしかった。
兄様がいないと、何もできなかった。
時間が経つにつれて、私はその名を広めていった。
私は、ただ歌っていただけなのだ。
それなのに歌は私を導いてくれた。
兄様が笑顔で私を見てくれた。
それが嬉しくて、私はもっと歌った。
やがてそれを止めるかのように現れたのがリリだった。
リリは、最初から兄様と一緒にいた。
メンバーの誰かの妹で、最初からいた。
私はリリとすぐに仲良くなった。
一緒に歌えることが、とても嬉しかった。
彼女の方がお姉さんで、私はいつも妹のように見られていた。
でもそれが嬉しかった。
おかげで、兄様はいつも笑ってくれていたから。
でもそれがいけなかったのだ。
兄様はいつしか、リリだけしか見なくなった。
それがとてもショックで、どうしようもなかった。
湧き上がってきたのは悲しみだけ。
でもそれを悟られぬよう。
兄様の前だけではせめて、悟られぬように。
「いない、の、ですか」
葵さんのおうちに着いたのは、その翌日。
もうヘトヘトで、体力的にも限界が来ていた私は玄関先で腰を抜かしてしまった。
葵さんのご両親は、とてもよくしてくださった。
私の話は聞いていたらしく、何だか色々とお世話になってしまった。
お風呂をいただいて、ご飯もご一緒させてもらった。
家族として、扱ってくれた。
とてもとても感謝しきれないぐらいだった。
そして、葵さんの部屋に入らせてもらった。
特に、大して殺伐とした風景でもない。
私の部屋より、ものが多いとかそういう感想しか出てこなかった。
CDラックに、見慣れたジャケットのCDが並んでいた。
HAINEとして活動していた時のものから、ライブ前に出したものまで揃っていた。
何だか不思議な感じがした。
部屋のオーディオで、最初のCDをかけた。
「かげーの 向こうがわにー」
気がつけば、歌いはじめていた。
「私がー いるからー」
リリが、歌っていたこの曲。
メジャーデビューした時の曲は、これを私とリリの二人で歌った。
本当に綺麗だったリリ。
私の姉代わりでもあり、優しかったリリ。
でも兄様をとろうとしたから。
あの日、兄様と口付けを交わしたあの日から。
私はリリを傷害としてみるようになった。
その後のことは、鮮明に覚えている。
リリと二人きりで、出かける予定をつけた。
兄様も誰もいないところへ。
そして、そのまま夜になって。
私の家に泊まってもらう算段をつけて。
家族は誰もいない、その日を狙っていたから。
計画は簡単に実行できた。
全てが落ち着いた後で、私は話を切り出した。
「リリ、私ね、兄様の、こと」
リリは振り返る。
「知ってる。好きなんでしょう」
笑顔だった。
彼女は、恐れるものなど何もないと言わぬばかりの笑顔だった。
「でも、ごめんなさいね。あの人は、このリリのものなのよ」
わかったら、あなたが引きなさい。
そう言った、リリが。
とても憎く見えた。
誰もが犯罪者を見て、嫌悪感を抱くように。
それと同じ感覚で、憎悪の感情が沸いた。
リリが、部屋を出ようとする。
「あや まるの は私の方、よ」
私は隠していたバールで、彼女を殴りつけた。
その場に蹲り、転び、、呻き、声をあげるリリ。
「でもね、兄様が見、ていい、のは私、だけ」
何度も何度も、彼女がおとなしくなるまで殴りつけた。
途中、私を見上げた彼女の表情は。
きっと、よく似た表情をしていたのだろう。
憎悪に塗れた、鬼のような形相に。
やがて、やっとおとなしくなったリリを見て。
私は安堵した。
うつ伏せの彼女の死体を、ひっくり返す。
苦痛に歪んだ顔さえ、のぞけば、彼女は十五歳にしては完璧なものを持っていた。
綺麗な髪。
整った容姿に、歌声。
どれも私が羨んだものであり、私の兄様を虜にした狂気となりえるものだった。
彼女の衣服を脱がして、ごみ袋にいれた。
この時期は、兄様はスタジオに通い詰めで滅多に家には帰ってこなかった。
両親だって、本当は仕事が忙しくて、家には滅多にいない。
私は寂しかったのに。
誰も本当の意味では構ってくれなかった。
私は、部屋の冷蔵庫に彼女をしまうことにした。
ゆっくりと時間をかけて、彼女の身体を切断する。
アキレス腱を切るのには時間がかかった。
何せ、硬い腱なので、元々力のない私には倍の倍ぐらい時間がかかったと思う。
カッターナイフでアキレス腱を切りつける。
プチプチと筋を切るのに、とても時間がかかってしまう。
まだ身体が暖かいうちに作業を始めたので、血飛沫がひどい。
血管を切りつける度に、返り血が飛び交った。
私の身体はすぐに血でべとべとになった。
それが、両足。
手首は結構簡単に切ることができた。
それでも、この日はそこまでしかできなかった。
彼女が目を覚ますことはなかった。
何故なら、もう既に死んでいるからだ。
一度休んで、次の日に持ち越した。
関節毎に切っていけば、そんなに無理な力は使わないで済むことに気づいた。
兄様のコレクションのナイフを、勝手に持ち出した。
きっと、兄様も、リリの身体をこうしてばらばらに解体することができただなんて聞いたら、嬉しいだろう。
膝の皿は、思ったより苦戦したけれど。
形のよかった乳房は、二つとも身体から切り離した。
リリの身体は全部で十四の肉塊になった。
私は、全てをバラバラにして満足していた。
でも本当の目的はそれじゃなかった。
彼女の全てを私の中に取り込むことが、望みだった。
時間はかかったけれど、私は彼女の全てを食した。
一番おいしくできたのは、出汁として使ったアバラ肉だったかしら。
それとも、解体しながら食べた肝臓のレバーだったかしら。
いえ、やはりあれね。
胸に入れた刃で、抉り出した心臓だわ。
どこまでも、知り尽くして。
何でも持っていた彼女を。
胎内に取り込んで。
私は大きく羽ばたいた。
リリを殺して、すぐに兄様から連絡があった。
連絡がとれないらしい。
何かあったのでしょうかと惚けた。
私は何も知らないという体で、メンバーとも接した。
そうしてリリは、行方不明のレッテルを貼られて、闇の彼方へと消えていった。
私は、安堵していた。
これで兄様が振り向いてくれると。
そうして時は流れていった。
あのライブで、私は死ぬつもりだった。
この喉さえなければ、もう生きていかなくてもいいと思えたからだ。
他にも理由はあるけれども。
死ぬことができなくて、病院送り。
事実を知った兄様は、二度しか会いに来てくれなかった。
可哀想な兄様。
恋人を殺したのは私なのに。
でも、それでも。
頼んだことはやってくれた。
ピアス。
少しだけ思い出した。
私は、あの子を探さないといけない。
名前は思い出せないけれど。
探して、もう一度会って。
全てを告白しなければならない。
その答え次第では、私はこの世界を崩壊させよう。
水嶋ハイネにとっての、世界を崩壊させるのだ。