大体、読んだものの最初の一文を覚えているなんてことは滅多にない。内容を思いだそうとしたところで、印象に残った部分でさえイマイチ出てこない。
それを前提としたら、自分が読んだ本なんか、何のために読んだのかということになる。勉学の為か、はたまた単なる暇つぶしか。どちらにせよ、私は昨日読んだ書物の内容は思い出せても、最初の一文が何であったか思いだせないでいる。
ならば私はどうすればいいか。答えは明確であった。それは単純なことで、最も簡単な答え。
もう一度その書物を開き、最初の一文を読めばいいだけの話だ。
私はそれらを踏まえた上で、こう言うのだ。
「だから、覚えておかなくてもいいの。一字一句覚えておく必要はないわ。そこにその本があるのだから、わからなくなったらもう一度見ればいいの」
湖のほとりで、湖面に溺れる人を見ながら。
「でも残念、私はもうあなたには会えないし、あなたは私には会えないのよ」
見渡す限り、森林に囲まれた湖のほとり。私は溺れている人を助ける術もなく、ただ見ているだけ。夢ではない現実に起こっている現象だった。
不思議と、辛い感じはしなかったけれども。私は涙を流していた。
何とも思うことはないのに、涙が流れるだなんて。
私はそれをただ嘆いていた。
山。
山から人でないものが降りてきた。
それは人でないものの形をしていた。
僕たちはそれを敬って生きていた。
僕たちは、それを神様と崇めて生きていた。
僕たちが平穏無事に暮らせるのは、その神様がいるからだった。
Act1「始点」
一昨日の夜だった。
家の外から悲鳴が聞こえてきたので、僕は部屋の窓から外を見た。
真っ暗闇のはずなのに、外は明るかった。
明かりの元を目で探すと、家の前の道で、何かが光っていた。
それの横に、しりもちをついた同級生の桜井がいた。
「さくらーい、どうしたんだー?」
思わず声をかける。
桜井は僕に気づいて、顔をあげた。
桜井の手には紐がにぎられているのが見える。
飼い犬の散歩だろう。けれど、その犬の姿が見えない。
「た、たすk」
桜井が途中まで言ったのを聴いていた。
明かりのもとが、大きな口を開けて、桜井を飲み込んだのだ。
その中で、それが、桜井を咀嚼する音が響いた。
まるで、はじめからそこにいなかったかのように、桜井の姿は消えた。
そいつは、人ではない形をしていた。
何か、黒いものが蠢いていて、ぐちゃぐちゃな形を保ちながら、ゆらりゆらりとしていた。
そいつは光を発して、一歩、また一歩と進んでいく。
僕は開いた口が塞がらなくて、窓を閉めた。
カーテンも閉めて、部屋の灯りを消した。
誰にも見つからないように。
もっとも、いま見つかってしまってまずいのは、あの、外にいるあいつだけだ。
僕はがたがたと震えていた。
翌朝、桜井の家に行ってみようと思い家をでると、村中の人があちらこちらをうろうろしていた。
いつもなら、畑仕事に精を出している爺ちゃんも、学校の裏に住んでいる診療所のセンセも、地主の大岩さんも、みんながみんな、何かを探しているようだ。
「浩太君、うちの孫を見なかったかい」
桜井の爺ちゃんが話しかけてきた。
「え、桜井、いないの?」
僕は、昨日見たのだとは言わずにそう口にした。
「昨日の夜、ポチの散歩に行ったきり帰ってこんのじゃ」
やっぱり。
あれは夢でも何でもなかったんだ。
ドクンドクンと、僕の心臓が高鳴る。
これは何を意味するのだろう。
不安以外の要素が見当たらない。
僕は何も言えなくて、走り出した。
「おおい、どうしたんじゃ」
桜井のじいちゃんの声が背中に張り付いた。
僕は何も見ずに駆け出した。
僕の住んでいるところは、山の奥の、ずっと奥。
夏はとても暑いし、冬は雪がものすごく積もるところだ。
この村から出て行く人はいるけど、戻ってくる人はそうそういない。
そういうところだ。
古い言い伝えで、学校の裏山にある神社の話がある。
その神社は神様を奉っていて、その神様は、この地で悪事を働いた鬼を封印したって。
ひょっとしたら、まさか、その鬼が封印をといてでてきて、桜井を食ったんじゃないかと心配になった。
僕の足は、裏山へと続く道の前で躊躇っていた。
まだ昼前だというのに、辺りは暗い。
まるで、何かが僕を誘っているかのような。
怖い。
確かめる勇気なんてない。
僕の意思とは裏腹に、足が勝手に動き始める。
逆らおうとする意思は、僕のものではないような。
でも、進んでいるのは、僕だ。
神社に行く途中に沢がある。
その沢には、河童がいるとか言われてるけど、僕は一度も、見たことがない。
誰もいない。そういうところ。
この村の誰もが、この山には住もうとしない。
それどころか、祭りの時でさえ近づこうとしない。
僕は沢のところで、一休みすることにした。
沢は、人の手の入っていないところで、僕はそれがとても好きだった。
せせらぎが聞こえるところまで降りていくと、川の中に人がいることに気づいた。
「えっ」
こんな山の中で、見たことのない人がいることが珍しい。
思わず、声をあげてしまった。
「……あっ、はは、見つかっちゃった」
川の中で振り向いたのは、桜井によく似た女の子だった。
服を着ていない。
「桜井、じゃない……?」
そいつは、口の端を吊り上げてにいっと笑ったかと思うと、僕を見つめて言った。
「桜井ほたるは我が食した」
食、食ったって、こと?
「次は、君をいただこうかな」
夏のある日。
山から人でないものが降りてきた。
僕らは、それと共に生きる道を選ばされた。
「少年と其れ」
僕らの住んでいた家が取り壊されていたことに気づいたのは二月ほど前のことだった。
家の前を通りかかった友人から聞いた話だったので、僕はあくる日の夕方、それを確認するために家に行った。
文字通り、跡形もなくなっていた。
誰も住んでいなかったのか、それとも立ち退きでいなくなったのかは知らないけれど。
僕らの住んでいた家は、なくなった。
木造七十年ぐらいの古いアパート。
六畳間と八畳間、そして台所にトイレが一つ。
風呂は共同で、外にある。
そういう古いアパートだったんだ。
こないだ、また行ってみた。
新しい何かが建設されるらしい。看板が立っていた。
僕は何だか少し、悲しい気分になった。
あの家で過ごした十四年は、かけがえのないものだったのだから。
せめて。
僕らに残されたものの一つでも。
長く長く残っていればいいのにと思った。
今でさえ、何が残っていて何がなくなったのかだって、わからないのに。
それでも、あのころの思い出は消えてしまわないように。
心の奥底にしまいこんだ。
そんな夏の日。
蝉がしゃわしゃわみんみん鳴くのを耳に聞きながら、冷房の効いた部屋でデスクトップに向かっている。
もう少ししたらバイトに行く時間だ。
ぼーっとしていたい時間が、今あるからこそ。
心いくまでゆっくりとしてしまおうと思う。
しまいこんだ思い出は。
いつかまた日を見れるのだろうか。
誰一人として、この塔のてっぺんまであがっていった者はいないと聞く。
それはこの塔が立入禁止だからではなく、あがっていっても単純に何もないということを理解しているからである。
私はこの塔を正面に立ち、ずうっと空を見上げていった。
高い、とても高い塔だったのだ。
私の住む地域の周りには、壁が作られている。
それを人は国境と呼び、他の地域の者が入ってくるのを防ぐためにあるのだと聞いた。
尤も、この壁の向こうに、誰かがいるだなんて、聞いたことがないのだけれど。
それでも私は、この塔のことが気になる。
別に、今の生活が苦しいから逃げ出したいというわけじゃない。
あまりにも、今の生活が充足しすぎて何も面白みを感じないからだ。
何も見いだせないのだ、今の、そしてこれからのことに。
それを感じているのは、私だけではないことを、私は知っている。
でもその人たちはそれを嘆いているだけで、何もしようとはしない。
けれど、私は違う。
今日はこの塔をあがっていくために、ここに来た。
願わくば、私の身が無事であることを誰かが祈ってくれますように。
「お困りのようですね」
長い螺旋階段を駆けていく途中で足を挫いた。
最初こそ多少足が痛むだけで済んでいたのだが、歩くのが苦痛になったころ、黒い燕尾服を着たこの場には場違いな男が現れて言った。
螺旋階段の中腹あたり、この塔の真ん中あたりだと思いたい。
もうどれだけあがってきたのかは見当がつかないけれど。
痛む足を抑えて男を見上げる。
「手を貸して差し上げましょうか。」
私は差しのべられた手に、はいと自らの手を伸ばすことはできなかった。
こんなところにいきなり現れて、あまつさえ手を貸そうとするような者がいることなんて、有り得ないのだ。
男は私をじっと見ている。
疑う心よりも、何よりも。
好奇心の方が勝ってしまうような、そんな私が。
「では、参りましょう」
手を伸ばさないなんてことの方が有り得ないのだから。
男は私を背負い、ゆっくりと階段をあがっていった。
そうしてたどり着いたのが、果てとも言えるであろう、てっぺんへの扉。
「さ、ここからはひとりでおいきなさい」
男が言って、背負っていた私を扉の前に降ろした。
ここまで来ると、何も音がしない方が逆に心地よい。
「僕はこの先には行けない。だから君だけでいくんだよ」
男はをう言うと、目にもとまらぬ速さで階段を駆け下りていった。
私は何もお礼を言えないまま、男の背中を見送った。
ゆっくりと立ち上がり、足の調子を確かめる。
大丈夫だ、少しなら歩ける。
そう言い聞かせて、ドアノブに手をかけた。
すんなりと扉は開く。
ギイイと蝶番が音を立てて塔の中に木霊する。
私は、扉の開いた先からもれる光に、瞳を閉じた。
開いた瞳の先に広がる世界。
世界はかくも美しい。
扉の先は、見たこともないようなところだった。
花畑が一面に広がる、大平野。
どこを向いても、家のひとつもない。
何もないだなんてことはなかった。
こんなにも素敵な花畑があるだなんて知らなかったのだ。
私は振り返る。
そこにあったはずの扉がなくなっていた。
扉どころか、塔すらない。
おかしい。
嫌、おかしいのは私の頭かもしれない。
ひょっとしたらこの花畑で眠っていて、昼寝でもしてしまったのかもしれない。
ああ、じゃあきっと今までのは夢だ。
夢であると信じたい。
「さ、お手をとらせてくださいな」
しりもちをついた少女に、手が差し伸べられた。
「もう、だからいやなのよ高いヒールって」
少女はふくれて言う。
時計が鳴る。十二時の鐘だ。
「はは、でもそれはそれでとても似合っていらっしゃる」
男は笑う。
少し悲しげに、切なそうに見えるのは気のせいだろうか。
「…褒めたって何もでないんだから」
ぼそっとつぶやくように言ったが、少女はまんざらでもなさそうだ。
手をとって、立ち上がる。土をはらって男の手を撫でる。
「本当、いつもきれいだと思うわこの手」
「そう、かな」
男の手は、然程節くれだってはおらず、荒れることもしていないきれいなものだった。
少女が不思議に思うのも仕方がない。
男の仕事は、宝石商だ。
しかし、あまりいい仕事をすることができていないようだ。
それを助ける意味も含めて彼にはもうひとつ、仕事がある。
人の形をしたものをつくる仕事-人形士という仕事だ。
主に金持ち相手の商売として、彼は人形をつくっている。
愛玩用ではない、観賞用のためだけの人形を。
その完成度は、他の人形士のつくるものをものともしないものがある。
まるで生きているかのような、そんな人形を彼はつくりあげる。
「ああ、もう列車が出てしまう」
駅の改札を抜けて、二人は走り出す。
「なんでもっと余裕もってこなかったのよ!」
少女のあげる怒声に男は苦笑いをした。
「はは、忘れ物をしてしまってね」
「時間厳守!守ってよ!」
少女はさらに声をあげた。
列車が、発車の合図の鐘を鳴らす。
「間も無く、樹狩行き夜行列車、鴻が発車いたします。おきゃくさま、乗り遅れのないよう…」
アナウンスが流れた。
列車の扉はもう目の前だ。
飛び乗って、すぐに扉が閉まった。
二人の息は荒い。
「もう…動くのいや…」
「は、はは…ごほっごほっ」
男は咳き込む。
「とりあえず、席にいこう」
ゆっくりと立ち上がって、男は少女の荷物をもつ。
てくてくと歩いて、切符に書かれた番号のある席を探した。
その後ろをゆっくりとした足取りで少女はついていく。
男の羽織の背に描かれた鬼の絵姿。
ナントカ、という鬼だったのを聞いた覚えがある。
しかしそれもうろ覚えだ。
「夜行列車、鴻、発車いたします。目的地でございます樹狩到着は、明後日の夕方、十八時となっております」
車掌のアナウンスが、各所にあるスピーカから流れてくる。
「尚、途中、柄蛾等背へ明朝六時、都魔楽へ十五時、吼千峡へ二十二時に到着後、明けてさらに明後日の朝十時に麒麟坂へと途中停車致します」
ずいぶんと途中で止まる駅が多いものだ。少女は思った。
「夜行列車、鴻、先頭一号車は運転席と車掌室、第一機関室となっております。二号車から五号車、八号車から十一号車は客室車、六、七号車は食堂車となっておりまして、売店もございます。十二、十三号車では書簡の貸し出しを行える図書車となります。十四号車から十六号車まではまた客室車となりまして、十七号車、十八号車は職員の宿車、十九号車は鴻の歴史を知ることができる展示車でして、二十号車は第二機関室、複車掌車となっております」
それではよい旅を、と言ってぶつりとアナウンスはきれた。
「あった、ここだ」
男は目的の場所へとたどりついたらしい。
「ここだよ、はやくおいで燐」
男との距離は、ひとつの車両の半分ぐらいの間があいていて。
久々に名前を呼ばれて、少女は少しうれしくなった。
「わかってる、わよ」
それでも少女はゆっくりと歩を進めていった。
少女の名は、阿佐酉燐。
「御津耶さん、すぐいくから」
少女もまた、男の名を呼んだ。
御津耶、と、呼ばれた男。
神崎御津耶。
前述のとおり、仕事は宝石商、副業として人形士をしている。
燐と、御津耶。
二人の旅は始まった。