誰一人として、この塔のてっぺんまであがっていった者はいないと聞く。
それはこの塔が立入禁止だからではなく、あがっていっても単純に何もないということを理解しているからである。
私はこの塔を正面に立ち、ずうっと空を見上げていった。
高い、とても高い塔だったのだ。
私の住む地域の周りには、壁が作られている。
それを人は国境と呼び、他の地域の者が入ってくるのを防ぐためにあるのだと聞いた。
尤も、この壁の向こうに、誰かがいるだなんて、聞いたことがないのだけれど。
それでも私は、この塔のことが気になる。
別に、今の生活が苦しいから逃げ出したいというわけじゃない。
あまりにも、今の生活が充足しすぎて何も面白みを感じないからだ。
何も見いだせないのだ、今の、そしてこれからのことに。
それを感じているのは、私だけではないことを、私は知っている。
でもその人たちはそれを嘆いているだけで、何もしようとはしない。
けれど、私は違う。
今日はこの塔をあがっていくために、ここに来た。
願わくば、私の身が無事であることを誰かが祈ってくれますように。
「お困りのようですね」
長い螺旋階段を駆けていく途中で足を挫いた。
最初こそ多少足が痛むだけで済んでいたのだが、歩くのが苦痛になったころ、黒い燕尾服を着たこの場には場違いな男が現れて言った。
螺旋階段の中腹あたり、この塔の真ん中あたりだと思いたい。
もうどれだけあがってきたのかは見当がつかないけれど。
痛む足を抑えて男を見上げる。
「手を貸して差し上げましょうか。」
私は差しのべられた手に、はいと自らの手を伸ばすことはできなかった。
こんなところにいきなり現れて、あまつさえ手を貸そうとするような者がいることなんて、有り得ないのだ。
男は私をじっと見ている。
疑う心よりも、何よりも。
好奇心の方が勝ってしまうような、そんな私が。
「では、参りましょう」
手を伸ばさないなんてことの方が有り得ないのだから。
男は私を背負い、ゆっくりと階段をあがっていった。
そうしてたどり着いたのが、果てとも言えるであろう、てっぺんへの扉。
「さ、ここからはひとりでおいきなさい」
男が言って、背負っていた私を扉の前に降ろした。
ここまで来ると、何も音がしない方が逆に心地よい。
「僕はこの先には行けない。だから君だけでいくんだよ」
男はをう言うと、目にもとまらぬ速さで階段を駆け下りていった。
私は何もお礼を言えないまま、男の背中を見送った。
ゆっくりと立ち上がり、足の調子を確かめる。
大丈夫だ、少しなら歩ける。
そう言い聞かせて、ドアノブに手をかけた。
すんなりと扉は開く。
ギイイと蝶番が音を立てて塔の中に木霊する。
私は、扉の開いた先からもれる光に、瞳を閉じた。
開いた瞳の先に広がる世界。
世界はかくも美しい。
扉の先は、見たこともないようなところだった。
花畑が一面に広がる、大平野。
どこを向いても、家のひとつもない。
何もないだなんてことはなかった。
こんなにも素敵な花畑があるだなんて知らなかったのだ。
私は振り返る。
そこにあったはずの扉がなくなっていた。
扉どころか、塔すらない。
おかしい。
嫌、おかしいのは私の頭かもしれない。
ひょっとしたらこの花畑で眠っていて、昼寝でもしてしまったのかもしれない。
ああ、じゃあきっと今までのは夢だ。
夢であると信じたい。
この記事にトラックバックする