山。
山から人でないものが降りてきた。
それは人でないものの形をしていた。
僕たちはそれを敬って生きていた。
僕たちは、それを神様と崇めて生きていた。
僕たちが平穏無事に暮らせるのは、その神様がいるからだった。
Act1「始点」
一昨日の夜だった。
家の外から悲鳴が聞こえてきたので、僕は部屋の窓から外を見た。
真っ暗闇のはずなのに、外は明るかった。
明かりの元を目で探すと、家の前の道で、何かが光っていた。
それの横に、しりもちをついた同級生の桜井がいた。
「さくらーい、どうしたんだー?」
思わず声をかける。
桜井は僕に気づいて、顔をあげた。
桜井の手には紐がにぎられているのが見える。
飼い犬の散歩だろう。けれど、その犬の姿が見えない。
「た、たすk」
桜井が途中まで言ったのを聴いていた。
明かりのもとが、大きな口を開けて、桜井を飲み込んだのだ。
その中で、それが、桜井を咀嚼する音が響いた。
まるで、はじめからそこにいなかったかのように、桜井の姿は消えた。
そいつは、人ではない形をしていた。
何か、黒いものが蠢いていて、ぐちゃぐちゃな形を保ちながら、ゆらりゆらりとしていた。
そいつは光を発して、一歩、また一歩と進んでいく。
僕は開いた口が塞がらなくて、窓を閉めた。
カーテンも閉めて、部屋の灯りを消した。
誰にも見つからないように。
もっとも、いま見つかってしまってまずいのは、あの、外にいるあいつだけだ。
僕はがたがたと震えていた。
翌朝、桜井の家に行ってみようと思い家をでると、村中の人があちらこちらをうろうろしていた。
いつもなら、畑仕事に精を出している爺ちゃんも、学校の裏に住んでいる診療所のセンセも、地主の大岩さんも、みんながみんな、何かを探しているようだ。
「浩太君、うちの孫を見なかったかい」
桜井の爺ちゃんが話しかけてきた。
「え、桜井、いないの?」
僕は、昨日見たのだとは言わずにそう口にした。
「昨日の夜、ポチの散歩に行ったきり帰ってこんのじゃ」
やっぱり。
あれは夢でも何でもなかったんだ。
ドクンドクンと、僕の心臓が高鳴る。
これは何を意味するのだろう。
不安以外の要素が見当たらない。
僕は何も言えなくて、走り出した。
「おおい、どうしたんじゃ」
桜井のじいちゃんの声が背中に張り付いた。
僕は何も見ずに駆け出した。
僕の住んでいるところは、山の奥の、ずっと奥。
夏はとても暑いし、冬は雪がものすごく積もるところだ。
この村から出て行く人はいるけど、戻ってくる人はそうそういない。
そういうところだ。
古い言い伝えで、学校の裏山にある神社の話がある。
その神社は神様を奉っていて、その神様は、この地で悪事を働いた鬼を封印したって。
ひょっとしたら、まさか、その鬼が封印をといてでてきて、桜井を食ったんじゃないかと心配になった。
僕の足は、裏山へと続く道の前で躊躇っていた。
まだ昼前だというのに、辺りは暗い。
まるで、何かが僕を誘っているかのような。
怖い。
確かめる勇気なんてない。
僕の意思とは裏腹に、足が勝手に動き始める。
逆らおうとする意思は、僕のものではないような。
でも、進んでいるのは、僕だ。
神社に行く途中に沢がある。
その沢には、河童がいるとか言われてるけど、僕は一度も、見たことがない。
誰もいない。そういうところ。
この村の誰もが、この山には住もうとしない。
それどころか、祭りの時でさえ近づこうとしない。
僕は沢のところで、一休みすることにした。
沢は、人の手の入っていないところで、僕はそれがとても好きだった。
せせらぎが聞こえるところまで降りていくと、川の中に人がいることに気づいた。
「えっ」
こんな山の中で、見たことのない人がいることが珍しい。
思わず、声をあげてしまった。
「……あっ、はは、見つかっちゃった」
川の中で振り向いたのは、桜井によく似た女の子だった。
服を着ていない。
「桜井、じゃない……?」
そいつは、口の端を吊り上げてにいっと笑ったかと思うと、僕を見つめて言った。
「桜井ほたるは我が食した」
食、食ったって、こと?
「次は、君をいただこうかな」
夏のある日。
山から人でないものが降りてきた。
僕らは、それと共に生きる道を選ばされた。
「少年と其れ」