「……タバコくさい」
部屋が、というかパジャマがだ。きっと、隣に眠るこいつが下敷きにしてたからだろう。そんな簡単ににおいがつくぐらいなら、よっぽどなんだと思う。そう思っているだけなのかもしれないけれど。
「いいか、別に」
独り言のように呟くが、隣には寝ている彼女がいるわけで。起きることはないだろう、とは思うのだが、油断はできない。
もう夜中の三時をまわった。明日のために眠らなければならない時間だ。寝返りをうつ彼女を見て、少しだけ笑う。何がおかしいわけでもないけれど、別にそれはいい。いいのだ、本当に。こうして見ているといつにも増して彼女が可愛く見えてしまう。この寝顔を見られるのが自分だけだと思うと正直ニヤリとする。起きている時にニヤリとしてしまうと、気持ち悪いと言われるのだ。流石にそれは勘弁してほしいのである。
「おやすみ」
寝ている相手に挨拶をして、布団をかぶる。いつまでこの関係でいられるのだろうか。少しだけ不安だ。
付き合いはじめて半年。自分が一人暮らしをしているせいか、よく彼女が泊まりにくるのだ。平日休日問わずにである。基本的に自分も彼女も朝はきちんと起きるので、困ることはない。家事については当番制を用いっているし、何事も問題はない……はずだ。
自分がタバコを吸わないのは、気管支が悪いからであり、彼女がタバコを吸うのはストレス解消のためにというのが建て前。本音はニコチン中毒一歩手前だからだ。昔からの知り合いであったのだが、半年前に何故か付き合うことになっていた。そのあたりは記憶が曖昧である。何かがあったとしか思えないのだが、思い出せないでいる。
元をたどれば、昔から気にはなっていたがその機会がなかったとでも言おうか。それに、その時期は学校の生徒会活動にかまけていてそれどころじゃあなかったのだ。
何にしたところで、彼女を好きでいる気持ちに変わりはない。よっぽど何もないよりは、新たな刺激に流されてしまうのだ。人とは恐ろしいものである。
そう考えていると、睡魔が襲いかかってきた。もう駄目なのかと思うと、自然と瞼が落ちる。
そういうことを考えながら、思うことがある。
ああ、矢張り、彼女のことが好きなのだなと。
雨のにおいに目を覚ました。枕元に置いた目覚まし時計の針は深夜の二時をさしている。襖を開けて外を見ると、土砂降りとまでは言わないがそこそこの雨が降っていた。もう暖かい季節だというのに、よく雨が降る。今年は暑くなるだろうか。
雨が好きだとは誰にも言ったことがないが、いつか庭のある家に住むのが夢であるとはよく言うのだ。広い部屋で一日中本を読んで暮らしたい。長屋でもよい。日本の風情を感じられるならばそれでよい。
雨の降る音や、においに惹かれてもう何年になるだろうか。検討こそつかないものの、それはとても長いものであると記憶はしている。やはり、晴れた日の方が好きではあるが、雨の音を聞きながら夜の静寂に身を投じて眠りにつくのも一興だろう。少なくとも今の状況ではそう思うほかない。
この雨が過ぎれば、いよいよ本格的に春が来るだろう。春が来たらまず何をしようか。あれもしたいこれもしたいと、気が気でない日々が訪れるだろう。しかしどうだ、一緒にそれをする相手がいないと話にならない。その点は抜かりなく、ちょうど今、隣で眠っている娘と行うのが正解だろうと思う。昔からの馴染みで、つい先日夫婦となった。長い間一緒にいたのが幸を成してこの形におさまったとでも言うのだろうか。それ以外にはないのだろう。
しかし、いつまで一緒にいられるだろうかは不安である。よっぽどのことがなければ問題なく過ぎていくだろう。どうなのだろうかそこは。
目下の目標は眠ることにある。いくら雨が好きとはいえ、流石に眠たい。時間も時間なので、このままもう一度眠ろう。
娘を抱き寄せて、瞳を閉じた。
この娘でよかった。本当に、よかった。心からそう思っている。
夢は夢でしかなく、その中で見ることのできるものは、記憶のデフラグによって起きるものである。
即ち、叶わない夢は見れるはずがないのだから。ということに従えば、ある程度のことは許容範囲内の夢となるであろう。
しかしそれでも、見たくもない夢を見ることだってあるのだ。
あれほど美しい鳥は見たことがなかった。
世界中の誰もがそう言いだすぐらいに、その鳥は煌びやかだったのだ。
それは大空を翔け、天に昇って行った。
火の鳥。
そう呼ばれる鳥がいるということを知ったのは、あくる日のことであった。ぼうっと、古い新聞を読み漁っていた時にその記事を見つけた。見出しには、火の鳥が舞う空と書かれており、ご丁寧に写真まで載っていた。
デッドメディアである新聞という媒体が、未だに保管されている国立図書館。数十年前までは全ての媒体が紙媒体であったと聞いている。今の時代のように全てがコンピュータで制御されてはいなかったと言われている。
天草老人はこのことを知っているのだろうか。新聞の日付は、二〇二四年と書かれている。
今から十八年も前の新聞記事。その内容を知っているとしたら、天草老人しかいない。
よくよく写真を見る。あの日、あの時見たものと、よく似ている。
鳥の形をしたあの炎と、よく似ていた。
国立図書館を出て、家に帰ることにした。
本来目的としていたはずの、学会論文を探すことをすっかり忘れていたのだが、それは今になってはどうでもよいこととなってしまった。それよりも気がかりとなる新聞記事の火の鳥。はたしてそれは、あの時見たものと同じものなのか、それとも。
「ただいま」
家の中に向けて声をかける。
奥からおかえりなさいという声に遅れて、十和がぱたぱたと足音を立てて玄関までやってくる。
「お昼、たべたの?」
そういえばもうそんな時間かと時計を見る。とっくの昔に正午なんて過ぎていたようだ。今になって空腹感がやってくる。現金な体だ。
「いや、お昼どころか朝ご飯もまだだよ」
そう言って足はリビングへと向かう。
「そういえば、天草の爺さんと連絡ってとれる?」
十和は一瞬きょとんとして、すぐに口を開く。
「とれるわよ。ただ、少し時間かかっちゃうかもしれないけど」
「いや、それでもいいよ。確かめたいことができてさ」
流石、権威と呼ばれるだけのことはある。侮れない老人だ。一筋縄ではいかないということだろう。
「じゃあ、お願いしてもいいかな」
十和はいいけど、と口をつぐんだ。
「……何?」
「何か、あったの?」
不安を掲げたその瞳は、僕をよく見ていた。
今まで彼女と暮らしてきて、何度も見たことのある瞳だ。
「ああ、今から話すよ」
リビングのソファに腰掛けて、一息つく。
お茶持ってくるね、と十和はキッチンに入った。
僕は何を、どうすればいいのだろうか。
大人げないじゃないか、それはと思うことがたまにある。
たとえばその発端はどうでもいいことだったりする。
冷蔵庫にあったケーキを勝手に食べられたから拗ねて口を利かないとか、ちょっとした食い違いでお互いに気分を害するとか。
この場で言えばまさしく、前者がそれに値する。
原因は、ほかのところにあるのだけれど。たまたま、話の途中で懐かしい話を持ち出しただけだったのだけれど。それがこのことの引き金を引いた。
「十和、そろそろ機嫌なおしてくれないか」
テーブルを挟んで正面に座る彼女に問いかける。澄ました顔で何も言わずに彼女は座っていた。
僕の言葉なんか気にすることなく、読書をしている。本当、どうしたものかこの子は。僕としては、食事も終えて話が済んだのはいいけれど、これじゃあ明日の買い物すら一緒に行けないだろう。
「……なら、もう今日は休みなよ。シャワー、先にいって。片付けは僕がやっておくから」
まだ片付いていない食器を持って、席を立つ。
十和はそれでも、表情ひとつ変える事がなかった。
食器を片付けながら、カーテンの向こう側がやけに明るいことに気づいた。時間は20時を少しだけ過ぎたところだ。
遠くからサイレンの鳴る音が聞こえる。どこだろう。
胸騒ぎがする。
「消防車のサイレン……」
リビングの窓のカーテンを開けて、明るい方向へと視線を投げる。
火事だ。
大きな炎が、轟々と燃え盛っている。
そう遠くはない。あれはどの辺りだろう。
考えるまでもなかった。
唐突すぎて、考える余裕が存在しなかっただけだ。
あの辺りには、両親の墓がある。
「こちら現場から中継です! 実相寺墓苑を中心に、火の手があがっております。ええ、炎は勢いを増して」
突然聞こえた声に振り返る。
十和がテレビをつけたようだ。
どんどんチャンネルを変えていくが、どのチャンネルも同じ内容の緊急報道がされているようだ。
その炎はまるまると太った大蛇のように地を這いずり、時に噴火した火山のように跳ね上がった。
実相寺墓苑を上空からヘリで映すチャンネルに切り替わる。
辺り一面が火の海だった。
呆然とテレビを見るしかない僕に、そっと十和が寄り添ってくる。
「修二、これって……」
何とか気を持ち直して、彼女の肩を抱く。
僕はそうすることでしか、彼女の不安を取り除く方法を知らなかった。
「あっ、今、本殿が!」
テレビの中でキャスターが叫ぶ。
本殿が燃えて、崩れ落ちていく。
撮影のためとはいえ、何台ものヘリが墓苑の上空を飛び交っている。
炎は更に勢いを増していく。
墓苑を含む周囲3キロは既に焼け野原になりつつある。
そうして、燃え上がった炎の中に。
僕は、あの時見た鳥を見た気がした。
翌日。
未だ炎は燃え盛り、周辺住民への避難勧告が国から出された。
周辺住民と言っても、実相寺墓苑自体は高倉山中にあり、麓の村まで行かねば人里がない。そのため、村に避難勧告が出たと言っても過言ではない。実相寺墓苑から麓の村までは、十キロほどの距離がある。
その村を境に、一般人立ち入り禁止の包囲網がなされた。
僕はもう二度と両親の墓を拝むことができなくなったのだ。
つづく
薄暗い部屋で目が覚める。
枕もとの時計は、まだ五時をさしている。これが朝なのか夕方なのかは、わからない。
しかしながら今までの経験からすれば、布団の暖かさと正面にいる人のぬくもりから、朝の五時だということがわかる。あたたかい、というよりは暑い。夏も近づいてきているこの時期に、流石に窓から遠いこの場所にあるベッドは少々寝心地が悪い。風通しがよければ問題にはならないのだけれども。
多少寝苦しいのは、最初からわかっていることだったし、別に悪いとも思っていない。
でも少しだけ、寝返りがうちたくて、身体を動かす。
布団から抜け出したい、とまでは言わない。
「ん……」
身体の向きを変えようとした時、声をあげたのは彼だった。
「恵理、どこいくの……」
ぐいっと、ひねりかけた身体を引き戻される。
寝ぼけている牧野は、いつにも増して素直だから、少し困る。
一緒に暮らすようになって、半月。
どんどん、相手のことがわかっていく日々が続いていく。
それ故に自分を愛してくれていることがわかって嬉しい。
どれだけでも、この人と一緒にいられるって思える自分がいることに、驚きを隠せないけれど。
それでもやはり、この人じゃないといけないと思う自分を否定はできない。
幸せ、なのだ。
現に今のこの状況も、私にとってはとても嬉しいことなのだ。
起きたら話をしてあげよう。
こういうことがあったよって。
きっと、照れながら笑うんだろうな。
ふたり 牧野と恵理の場合
古屋牧野と瀬野恵理の場合。
「ちょっともすこしそっちつめてよ」
「だーっ! お前がそっち寄ればいいんだよ!」
ふたりでソファの取り合い。
「いいじゃんよー、あんたがもっとそっち寄ればいいじゃんよー」
初めてのバイト代から少しずつ貯めて買ったソファ。
一人掛け用の、少しゆったりしたやつ。
ふてくされる恵理のことは気にせず、牧野はテレビから目を離さない。
互いが互いに譲ろうとしない中で、恵理は制服のポケットからの音に気づく。
「あ、ちょっと電話してくる」
「ん、いってら」
牧野の顔も見ずに部屋から出て行く恵理。
ばたんとドアが閉まる音がして、そっと振り向く。
別に誰からの連絡なのかとか、そういうのはどうでもいい。
いつまでたっても互いに変わることのできないことが少しだけひっかかる。
それだけがひっかかっている。
「おかーさんからだった」
後ろ手にドアを閉めてそこから報告する恵理。
振り向こうともせず適当な相槌をうつだけで済ませる牧野。
視線はいつの間にか天井を仰いでいる。
「おじいちゃんが調子悪いみたいだから、おじいちゃんのところ行ってくるって」
「ふーん……」
そう特に興味もないようなフリだけをして、テレビを消す。
「それで、夕飯は適当に食べてきてって」
どこか消え入りそうに感じる声色だった。
「あっそ……」
そっけなく答えてしまうのは、いつものことだ。牧野と恵理が出会ったころから、ずっとそうだ。
いつの間にか、恵理の顔が牧野の正面にあった。
天を仰ぐ牧野の顔を覗き込むように恵理は立っている。
「……なに」
少し考えた後、にまーっと笑って恵理は言う。
「いいこと思いついた」
そういってソファに座る牧野の足の間に座る恵理。
「よいしょ、っと」
そのまま全体重をかけて後ろにもたれかかる。
勿論、後ろにいるのは牧野である。
「ぐぉ……っ、おい、いきなりなにすんだよ!」
突然の行動に声を荒げる牧野。
「あは、ごっめーん」
牧野はそれを聞きながらも謝る気がないことには気づいている。
牧野がだらしなく広げた手をとり、自分を抱くように動かす恵理。
「これでよし」
一人満足そうに頷くのを、知らぬフリで通すわけにもいかない。
このまま、少しだけこのままでいたい。
そういうのが聞こえるかのように、牧野は何も言わなかった。
「どうしよっかな、夕飯」
「うちでたべてけば?」
恵理はその言葉に驚き、振り向いた。
がんっと音がするぐらいの速度で牧野の顎に恵理の後頭部が直撃した。
「痛って! お前、ゆっくり振り向けよ!」
顎を抑えながら声を荒げる牧野。
「そっちだって! 急に変なこと言うから悪いんじゃん!」
ぶつけたところをさすりながら、半泣きでふくれる恵理。
「変なことって……」
一度離れた体勢を、牧野はもう一度とった。
「俺が悪かったよ。そんな顔してないで、機嫌直して」
横から抱きしめられている体勢が心地よい、なんてそんなことは恵理は言わない。
牧野もそれはわかっている。
だからこそ、無言でいられる。
牧野の胸に耳をつける形で、かれこれ五分ほど無言の時間が流れた。
トクン、トクン、と牧野の心音がゆっくりと伝わってくる。
「……今日、うち親帰ってこねーから俺も飯ねえんだ。一緒に飯つくろうぜ」
あ、少しだけ、心音が早くなった。
「ん……いいよ」
抱きしめてくれる腕をぎゅっとするのも好きだ。
「ついでに泊まってけよ」
もっと早くなったのが、恵理には面白く感じられる。
「……何もしない?」
恵理は顔を上げて、牧野の目を見ながら聞く。
「何もしねーよ」
ハァ、とため息をつきながら牧野は言う。
「……えへへ」
恵理が笑うと、牧野も笑う。
少し距離感を感じるけれど。
二人にとって、心地のよい距離。
バランスの保たれているその距離が。
互いに好きだった。
無論、互いが互いのことを好きあっているのは認めている。
けれどそれだけじゃない。
二人の意識はそこを重点としてはいない。
少し違う形のものだった。
ふたり 牧野と恵理