天候は回復していない。
かろうじて今、晴れ間が覗いているだけだ。
羽織の男は口を開く。
「どうかしましたか」
余裕のある笑みを口元に浮かべていた。
「あんたに……聞きたいことがある」
「何でしょうか。私に答えられることでしたら」
風が吹きだした。強い風が。
聞くのを拒もうとする俺がいる。
もし、斎原の情報に誤りがあったら。
全く関係ない人間を疑うことになる。
「いや……何と言っていいか」
落ち着け俺。
「その羽織、綺麗だよな」
何を言い出すのだいきなり。しかしそれしか言えなかったのも事実。
「え?ああ、これですか。古い友人に譲ってもらったのですよ」
嬉しそうに言う男の瞳は輝いている。
「殺人鬼のことは、知ってるよな?」
男の顔がぽかんとする。
「殺人…鬼、ですか?」
「とぼけるな!…あんた、月曜の夜、女を一人殺しただろう!」
言い切ってしまった。
後には引けない。
「おとなしくしてれば、危害は加えなうおっ!?」
言い切る前に真正面に来た拳をしゃがんで避ける。
「何を言い出すかと思えば…初対面の人間を疑うなんて、どういう世界で生きてきたのかしら」
拳の主は、男と一緒にいた女の子のものだった。
シャツに薄手のベスト、動きやすそうなフレアスカートを履いた女の子。上から下まで黒で統一している。
一見、弱々しく見えるがいたって真逆の印象を受けた。
しかもオーバーニーとか。葵だったら絶対やってくれないような格好だし。
「いえ、的確な判断なのかもしれませんね」
彼女は、構えた。
見たこともない構えで、俺を牽制しようとしている。
「さあ、かかってk」
ごつんと鈍い音がした。
彼女の頭上に、男の握りこぶしが乗っている。
「な…なにするんですか御津耶さん!」
頭を抱えて、男に怒鳴り散らす彼女。
「あれほど君には喧嘩はいけないと言ったのに、いきなり何をしているんですか」
有無を言わさぬ男の声に、彼女はひるむ。
「いいですか、こちらではおとなしくするようにと言ったでしょうに。なのに何故君は」
その後、ぐちぐちと男の小言が続いた。
完璧に俺は置いてけぼりをくらっている。
五分ほどして、やっと男がこちらに注意を向けた。
「それと、あなたもです」
あれ、標的俺?
「他人を疑うのはいい心がけだと思います。ですが、いきなり殺人鬼扱いはやめてください」
「な…だっ、あんた、そのカッコ」
今聞いた、とは言いがたく、言おうかどうか迷ってしまった。
「どこから情報を得たのか知りませんが、あなたに何かを言われる謂れはぼくにはないのです。無論、燐、彼女もです」
道の端でしゃがみこんでいじけている女の子に目を向ける。
燐、という名前なのか。
「だからこの羽織は友人に譲ってもらったのだと言ったでしょう」
何だか怒っていらっしゃる。
「あ、いや…」
そうだ、どうしたんだ俺は。
決め付けてしまって、一体どういうつもりなのだ。
何だか立場が、悪くなってしまった。
「はあ…もう行きましょう。あなたに構っている時間はないのですよ。今夜の宿もまだ…」
男は閃いた!という顔で俺の肩をがっしとつかんだ。
「ぼく、今あなたに言われたことがすごく辛くてですねえ」
顔が近づいてくる。
「それで、まだここの街は来たばかりなので、よくわからないのですよ」
更に顔が近づいてくる。
「というわけで、あなたのお宅にお邪魔させてもらいたいのですが」
キラキラとした笑顔で男は更に顔が近くなる。
「おねがい…します…」
いつの間にか、燐という女の子も一緒になって顔を近づけてきていた。
「……」
うっかり、無言でうなずいてしまった。
迫力に負けた。
「よっし、今夜の宿確保ですよ!やりましたね!」
「流石御津耶さんです!」
男は燐を抱き上げて回転している。
もう、何だか疲れてしまった。
俺、今夜寝れるのかな。
そうしているうちに、ずいぶんと雨雲が近づいてきていた。
俺は二人を家に案内することになった。
雨が降り始めたのは、家についてすぐだった。
この男が犯人だと疑っていたのに。
何故かそうだという気にはなれずにいた。
「どうぞ、あがってください」
俺は先に玄関を開けて、家に入った。
和室、使ってないから掃除しなきゃいけないなと思いながらも、葵を探す。
「……おきゃくさん?」
背後から声をかけられて身体がはねた。
「びっくりした…脅かさないでよ」
部屋からは出てきたんだな、と思いながら振り向く。
「って葵何その格好!?」
ほとんど裸に近い格好で、葵は目をこすっている。
ものすごく眠たそうで、今にも寝そうな雰囲気だった。
下着はつけているのだろうが、何故か俺のシャツを着ている。
というか、シャツだけ。
「おやおや、大胆な…」
「綺麗ですね…」
それぞれがそれぞれの意見を出した。
いや、確かにそうだけども。
と思ったが言わない。
「と、とりあえず、こちらへ…」
二人をリビングに向かわせて、葵に服を着てくるように言い聞かせた。
前途多難、むしろ全部多難だと思って。
「ご紹介が遅れました、ぼくは神崎御津耶。仕事は宝石商をさせてもらっております」
「助手の阿佐酉燐です」
男が頭をさげ、それに続くように燐も頭を下げた。
「宝石商、ですか」
お茶を差し出しながら、着替えてきた葵が問う。
「ええ、この街には古くからの知り合いがおりましてですね、用事で寄ったついでに、仕事の方をさせてもらおうかと」
男はどこから取り出したのか、大きな鞄をリビングの床に置いた。
がちっと大きな音が三度して、鞄が開く。
そこには、数々の箱が並べられていた。
「こちら、ですねえ」
その箱をあけると、中には硬貨大の宝石が入っていた。
「綺麗……」
葵が目を丸くしてうっとりとしている。
「お目が高いですねえ、これは」
神崎は商売を始めるかのような口調で葵と話していた。
一方俺は。
目の前に座っている燐とメンチを切りあっていた。
今なら、互いにテレパシーで会話ができるのじゃないかと思えるぐらいに。
今にも向こうが口を開こうとしたとき、空気を読んだように神崎は言った。
「燐、やめなさい」
その声に従うように、燐はばつが悪そうに俺から視線をそらした。
「それで、何でその宝石商さんがうちに?」
葵の問いに、神崎は答えた。
「いえ、実はですね、弟さんに殺人鬼扱いされまして」
あれ、今その話するの?
「殺人鬼、ですか…?」
葵の瞳が翳る。
「おや、ぼくなにかわるいことを言いましたかねえ…」
「みたいですね」
間髪入れずに燐が突っ込む。
俺も何も言えなかった。
神埼も燐も、今夜は泊まっていくことになった。
外では土砂降りの雨が降っていた。
夕食の席で、宝石商は語った。
「実はですね、ぼくたちは他の世界から来たのですよ」
俺と葵は持っていた箸を落とした。
「え?他の世界?」
聞き返すと、燐が答える。
「ええ。正確に言えば並行世界です。わたくしどもの世界と、この世界は非常に似ています。というか、同じ世界の、他の可能性を歩んだ世界なのです」
並行世界。聞いたことはあれど、存在するだなんて、思ってもみなかった。
「私たちは、旅の途中なのです。こちらには、知り合いがいるので立ち寄ったのですが…」
燐の顔がくもった。
「この台風のおかげで、列車が動かないのです。急いでいるのですが…」
何かと訳ありなのはよくわかった。
一人納得していると、葵が目を輝かせて言った。
「よ、よかったら、そっちの世界のこと話してくれないかな」
しまった、こいつこういう話に目がないんだ。
「いいですよ、ね、御津耶さん」
味噌汁をすすっていた神崎が咳き込む。
「ごほっ…まあ、泊めてもらうお礼も兼ねてですからね」
「はい、ではまず…」
燐の話をまとめると、こういうことらしい。
彼女たちのいる世界では、文明の発展こそこちらと同程度ではあるが、交通手段は主に蒸気機関が発達している。
基本的にはこちらの世界と同じで、国の形も言語も大体同じ。
戦争も何もない、こちらの世界じゃ見られないような風景も存在するとか。
夜だけの街もある、昼だけの街もある。
宝石鉱山だって、まだまだたくさんあるらしい。
「なんだか、夢みたいな話ね」
食後の一服を嗜みながら、葵が言った。
それぞれの目の前に、カップを置いてそこに紅茶を注いでいた。
「まあ、こちらの世界の方が安全ですけどね」
淹れられたばかりの紅茶を平気で飲み干して、おかわりと言った神崎。
「私は、どちらも好きですわよ」
と、葵の手伝いをしながら燐が答えた。
「ふうん…」
意外と深い話だなとは思うが、実感がわかない。
ひょっとしたら俺たちはだまされているのではないかと一瞬よぎった。
いやでも、まてよ。世界崩壊を前にして、何も不思議なことなんてないんだよな。
ううん、何と言ったらいいのやら。
その後、燐が風呂へ行き、それに次いで神埼が入った。
湯からあがってきた燐の髪を、葵が乾かしていた。
俺はいつものソファで寝そべることができないので、リビングの椅子を持ってきて、二人を見ていた。
「綺麗な髪ね」
「…そんなこと、ないです」
俯き加減と髪の長さが相まって、ぱっと見貞子に見える燐。
着替えがないので、葵の使っていないパジャマを着ている。
外はまだ雨だ。天気予報じゃ、今夜から明日の夜にかけて一日中降り続くのだとか。
「私、御津耶さんのこと、好きなんです」
「うん、わかる。そう見えるもの」
「そう、見えますか。……私、奉公に出ていたころに御津耶さんに拾われたんです。もう十何年も前のこと」
燐はゆっくりと口を開いた。
「そのお屋敷の旦那様、とても厳しい方でした。私はいつも失敗ばかりで、旦那様に叱られていたんです。ある日、御津耶さんが商売をしにきて…」
燐は、少しずつ、少しずつ息をはいた。
「そのとき、私は旦那様に叱られていて、蔵に閉じ込められるところでした。御津耶さんは、前にもお屋敷に来てくださっていて、その時の代金を請求しにきていたのです」
俺は半分流して聞いていた。
葵は、いつの間にか乾かす手が止まっている。
「御津耶さん、私を見て『代金の代わりにその娘をくださいな』って言ったのです」
くす、っと笑う声がして、俺は顔をあげた。
燐が微笑み、嬉しそうに言った。
「だって、御津耶さん、お金はいらないから私をって…役立たずの私を、ですよ」
それは自嘲の笑みではなくて、感謝のこもった笑み。
「嬉しくって、嬉しくって。もう泣いて泣いて、御津耶さんに飛びついたんです。やっと解放された、って」
かちゃり、と小さな音がして風呂場のドアが開いたのがわかる。
神崎が風呂からあがったのだろう。因みに、彼には俺のシャツとパジャマを貸している。
「その時から、私にとって御津耶さんは大事な人でした。そのころから、好きだったんです」
リビングからは、風呂場が見える。しかし、二人のいる居間からは見えない。
神崎と目があった。
彼は、神妙な面持ちで耳を澄ませていた。
「もう、ずっと一緒にいるんですけどね。あの人、鈍感だから……」
また、燐は笑う。嬉しそうに、笑う。
「…………恋する乙女なのね」
ずっと聞き役に徹していた葵が、燐の頭を抱いてはしゃぐ。
少し苦しそうに見えたが、気にしない。
っていうか嫉妬してしまうなこれは。
神崎は、部屋に入り辛そうにはしているが、まんざらでもなさそうな顔をしていた。
夜はまだ長い。
俺は、神崎を疑ったことを謝らなければと思っていた。
続く。
九支枝の葬儀は随分ひっそりと行われた。
集まったのは、親族と少しの友人たちだけ。本当なら彼女のためにもっと集まらなければいけないのだ。
写真の中の九支枝は笑っている。
我が子を見守るかのような表情で。
皆、我先にと地球から出て行く。
自分の生まれた星を捨てて。
そういった流れの中で、九支枝の死はどれだけの影響を与えたのだろうか。
少なくとも俺の中では、彼女の存在が大半を占めていた時期があるので、言葉にできない。
九支枝の両親は、俺のことを覚えていてくれた。
高校時代、九支枝の家族には世話になったことがあった。
それは今語る必要はない。いずれ、世界が崩壊しても俺が生きていたら語るのだろう。
交わせる言葉がなかった。
葬儀が終わり、出棺となって。
火葬場で彼女を見送った後。
俺は九支枝の両親と対面した。
九支枝の両親はとても辛そうな面持ちでいた。
それでも、俺のことを思ってか、父親である宗平さんは語ってくれた。
話は今から四日前、九月八日に遡る。
俺が九支枝と会った直後、九支枝は帰路についた。
そして、俺と会ったことを両親に話していたそうだ。
久々にあんな笑顔を見た、と宗平さんは言った。
夕飯も一緒にとり、いつものように家族団欒を過ごしていたそうだ。
そして、彼女の携帯が鳴り、少し出てくると言ったのが最後。
どこに行くんだと、宗平さんが聞くと、彼女はこう言ったそうだ。
『高校の時の、友達に会いに』
変わり果てた姿で彼女が見つかった場所は、ある古本屋。
迷路のような複雑な本棚の並びの中、一番奥で彼女は血まみれでいたそうだ。
連絡を受けたのは、夜中だったらしく、両親も心配していたところだったとか。
何故あの子がこんな目に合わなければならんのだと、宗平さんは嘆く。
俺は、聞いていて頭がずきずきと痛んだ。
赤ん坊の泣く声が聞こえてきた。
振り向けば、そこに九支枝の母親である良子さんがたっていた。
腕の中には、二つの命。
九支枝の残した命が、そこに存在していた。
双子、そう聞いていた。
そういえば、九支枝自身も双子だったとかいうような話を聞いた記憶がある。
二人とも、どこか九支枝の面影がある。
気がつけば、その子たちを抱かせてほしいと言い出していた。
良子さんは快く返事をしてくれて、俺は同時に二人を抱えることになった。
先ほどまでは泣いていた二人だったが、今は安らぎを感じたかのようにおとなしい。
この子たちが残された意味がどこにあるのだろうか。
涙が流れ、二人の顔におちる。
良子さんは気遣ってくれて、涙を拭いてくれた。
宗平さんは、子供をなだめるように肩を抱いて諭してくれた。
何で、だろう。俺よりも辛い人たちが、ここにいるのに。
俺が一番悲しいみたいに、泣いているだなんて。
この時ほど、自分が恨めしく思えたことはなかった。
火葬が終わり、骨壷に骨を納める作業がはじまった。
この瞬間こそ空虚な時間だと思う。
骨だけになった彼女が一つの空間に納まるのを、ずっと目で追っていた。
ああ、俺は何をしているのだろう。
九支枝の子供たちは、ずっとおとなしくしていた。
全てが終わり、また余裕ができたら連絡すると告げて俺は九支枝の両親と別れた。
何もしたくない、このままどこかへ行きたい。
そう、思ってしまう自分を、何故か受け入れようとしていた。
ハイネのことも気になっていた。
昨日の今日で、まだニュースではハイネのことをとやかく言っている。
俺としても、葵としても、その扱いは目に余るような光景だった。
葵は今日はずっと家にいる。
ハイネのことが気になってしまって、何も手につかないだろうとは予想はしていた。
九支枝を殺した殺人鬼を、俺は許すことができないだろう。
そう、思っていた。
思っていたら、路地を曲がったところで人にぶつかった。
そのまましりもちをついてしまい、戸惑う。
「わっ、びっくりした」
「あ、すいませ…ん」
目の前から歩いてきたのであろう人物は、この暑い中、厚手の羽織を着ていた。
綺麗な色あいの羽織で、黒地に金。
「はは、ぼくもたまにやるんですよね。気をつけないと、とは思うんですけど」
笑っている羽織の男の向こうにいた女の子が近づいてきた。
「御津耶さん、笑ってないで先に謝っておいたほうがいいのでは」
きょとんとして、男は口を尖らせる。
「ああ、そうでした、すいません」
男は立ち上がり、俺の手をとって言った。
「前を見ていなかったのは私も同じでした。お怪我はありませんか」
なんと、一瞬で紳士的な態度になった。
それに驚きつつも、ええ、まあとかしか返せない。
それはよかった、では。と言って男は行ってしまった。
後ろにいた女の子も、俺に一礼をしていった。
男の背、羽織には鬼の絵姿が描かれていた。
それに見とれてしまった。
禍々しくも美しい。
携帯が鳴る。
そういえば、今朝から電源を入れっぱなしだった。
九支枝の葬儀の最中にならなかったのが幸いだった。
コールは七回。
俺はそれを確認して、すぐにかけなおした。
「どうした」
電話の向こう、一つ咳払いをした相手が言った。
「やあ、殺人鬼についての新しい情報が入ってね」
挨拶もなしに彼は言った。
息を飲んで返事をするのを忘れるぐらいに。
俺は動揺した。
「殺人鬼斎藤は、羽織で行動しているそうだ」
羽織?
ゆっくりと、振り返る。
まだ、あの男はそこに。
少女の向こうの、後姿。
「背に、鬼の描かれた羽織を…」
携帯を耳から離して、声を荒げて。
叫んだ。
「なあ、あんた、そこの羽織の――」
男は振り返って、にやりと笑った。
「殺人鬼篇再開。同時に、宝石商篇開始」
人が、人を殺す時。
若しくは、自分を傷つける時における、その実行方法。
刺す。
貫く。
射る。
抉る。
突く。
切る。
裂く。
砕く。
焼く。
刻む。
削ぐ。
剥ぐ。
この場合は、突くの変化系である突き立てるが正解なのかそれとも、刺すの変化系である刺し貫くが正解なのか。
どちらにしろ痛さは尋常ではないだろう。
齢十四の少女、ハイネがとった行動は常軌を逸していた。
ヘッドセットから会場に響いた、柔らかな肉を鋭利な金属で破る音。
ハイネは自らの喉に、取り出したナイフを突き立てた。
吹き出る鮮血。
ステージの床から最前に座っていた観客までもがハイネの血を浴びた。
崩れていくハイネの顔は、どこかやり遂げたという恍惚とした表情だった。
その身体を支えたのは、他ならぬ千字だった。
「い、や……いやあああああ」
どこからか聞こえてきた絶叫が会場をつんざく。
静まり返っていた会場はまた沸きだしたかのように見えた。
否、そうではない。
それは眼前の光景から逃避するための行動だったのだ。
皆が一斉にパニックに陥る錯覚を覚えた。
「そんな……」
葵が走り出そうとしたのを、俺は繋いだ手を引いて止めた。
「離して…あたし、あの子を」
「駄目だ!騒動が収まるまで待つんだ」
俺と葵の視線が交錯する。
葵は唇を噛んで、俺の胸にその身を預けた。
どよめきたつ会場内、スタッフが観客を誘導していく。
俺たちはただ見るだけしかできなかった。
ハイネの傍に駆け寄ったメンバーと、ハイネ自身を。
ハイネは自分を取り巻くものを、抽象するもののことを考えていた。
それが仮令、どんな形をしたものであっても必要なのかどうかを。
リリの顔が脳裏に思い浮かんだ。
自分を抱えている、千字の顔が歪んでいた。
そういえばあの人、葵さんと四塚さんはどうしただろうか。
来てくれていたのは確認できたから、多分。
ああ、兄様。
貴方のことを思えば思うほど、鼓動は高鳴ります。
貴方がいてくれたから、私はここまでできました。
どうか御体を壊さぬよう。
ごめんなさい。
私のせいで、せっかくの兄様の夢を壊してしまって。
でも、いいでしょう?
貴方がリリと一緒に過ごしていた時の幸せに比べたら、これぐらいの苦痛はどうってことないでしょう?
私はこのま、ま、リリ、に会いに行、きます。
ハイネの意識はそこで飛んだ。
いつのまにか雨が降りだしていた。天気予報では何も言っていなかったと思うが、それ故に傘も何も持っていない。外れる天気予報しか放送しない世界だということを忘れていた。
俺は茫然とする葵の肩を抱いて声をかける。当たり障りのなさそうな言葉を選んだ。
「夕飯、どうしよっか」
会場から押しやられた他の客に混じって、俺たちは立ち尽くす。雨の当たらない会場内の一部は開放されていて、ざわつく人々からピリピリした空気が漂う空間になっていた。
「……食べたくない」
予想していた通りの答えが飛び出してきて、面食らう。
いつもなら、平気な顔をして俺を引っ張っていくのだが今回ばかりはそれがない。葵の中では相当のショックだったのだろう。
憧れと羨望の入り混じった気持ちをハイネに対して持っていたのだから。
それに、俺を元気づけようと連れてきてくれたのにこうなるとは思っていなかったのだろう。
事実、俺も同じ気持ちだった。
たった一瞬で、水嶋ハイネという個が形成していた世界が崩壊したのだ。
俺も正直やりきれない。だけど、それ以上にメンバーの絶望と、葵のことを考えたらそう大したものではない気がした。
「……帰ろう、姉ちゃん」
俯く姉の手を引いて俺は歩き出す。傘も何もささずに。
人ごみに紛れ込んで、もやもやした気持ちを拡散させようとする。うまい具合に処理できないから、段々とイライラしてくる。
「っ……痛い…」
夜の街の喧騒を早足で抜けていく。
「ねえ、四塚、痛い」
肩がぶつかっても、人が邪魔でも平気で足を進めた。
「痛いってば……!」
つないでいた手を引かれて、思わず歩みが止まる。振り返ると姉が肩を振るわせていた。
「あ…」
前を向いた姉の顔には少し翳りが見えた。俺は何だか申し訳なくなって、人目を気にせずに姉を抱きしめた。
「ごめん、姉ちゃん」
「…………て」
掠れた声で姉が言う。
「……何?」
「どう、して…何であの子は…」
俺も同じ気持ちだよと、言う代わりに姉を更に抱きしめた。
そうしながらも、ハイネのことを考えていた。何故彼女はあんなことをしたのだろうかという疑問。
あのカフェでハイネが最後だと言っていたのは、このことを指してのことなんじゃないかと。
だとしたら、あの時一緒にいた俺たちが彼女を救ってやれる可能性はあったはずだ。
俺は寝ていただけだが、姉はずっと喋っていたのだからどこかで気づけなかったのだろうか。可能性を求めると求めた数だけ返ってくる。
世界崩壊の日まで後少し。
何もできないでいる姉弟は帰路を辿った。
日付が変わる少し前に俺たちは家についた。
「ただいま」
家の灯りはついていなかったが、一応声だけはかけた。
両親は今日も旅行に行っている。
しばらくは帰ってこない。
玄関の鍵をかけて、一息つく。
「姉ちゃん、靴脱いで待ってて」
二人して濡れネズミなので、どちらかがタオルを持ってくるのが望ましい状況だった。
しかし、姉は微動だにしない。 ああああああああ
仕方がないので俺がタオルを取りに行く。床が濡れたが、後で拭けば大丈夫だろう。別に気にもとめなかった。
ひとまず先に自分の着ていた衣類を洗濯機に突っ込み、半裸になる。
ついでにバスタブに湯を張る。
あの後雨は更に降って、台風並の暴風雨になった。
よく無事に帰ってこれたなと俺は思う。
タオルを持って玄関に戻ると、姉はただそこに立っていた。
「ちょっと、姉ちゃん」
未だ動く気配のない姉を呼ぶ。
下を向いていた顔をあげた。
目が赤いし、頬には涙の筋がいくつかあり、いつのまにか泣いていた様子が窺えた。
「……葵、おいで」
ゆっくりと近づいてくる葵の服を脱がす。
「風邪、ひきたくないだろ」
靴と上着を脱がして、風呂場へと連れていく。
「服脱いで待ってて、ね?」
葵は小さく頷いた。
その間に俺は夕飯の下準備。すぐにできる暖まるものがいいな。
テレビをつけると、ニュースがやっていた。天気予報は、これから三日間ほどの間台風がこの辺りに影響を及ぼすと言っている。そんな大きな台風が来ていること自体俺は知らなかった。
『尚、この台風は明後日の昼ごろが一番影響を受けますので気をつけてください』
ニュースキャスターは関心なさげに言っていた。
その直後にこの時間には有り得ない番組がやっていた。
ハイネの番組だった。
どうやら特番が組まれているようで、あの出来事はすぐに全国ネットに流れたみたいだ。よく知らない音楽評論家とかいう輩がぐだぐだ持論を述べている。
ハイネのあの表情を思い出す。
あの時の彼女の微笑み。
一体何に向けての笑みだったのだろう。
考えながら、下準備を済ませた。夕飯はシチュー。決定。
五分とかからなかったので急いで雨戸を閉める作業にとりかかる。
立地自体は悪くないので、周囲が冠水したりすることはないし、近くの川が氾濫するなんてことはない。一階部分の東向きと南向きの窓の雨戸を閉めた。二階はまた後でやろう。
そろそろ湯もたまったころだろうと思い風呂場に顔を出す。
「……さむいよ」
葵は素っ裸でしゃがんでいた。
「…そりゃ服脱いで待ってろとは言ったけど…ずっと待ってたの?」
葵は頷いた。
「ああ……ごめんな」
俺もすぐに服を脱いで、葵と一緒に湯船に浸かることにした。
しかし失敗。まだバスタブに半分ぐらいしか湯が張られていない。
浸かれば水位が上がるだろうと思い、先に入ることにした。
「……葵?」
曇りガラスのドアの向こう、動かないでいる葵を呼ぶ。
少しして入ってきた葵は、今更ながらにタオルを体に巻いている。
「……」
俺も今更ながらに恥ずかしくなってきた。
あれ、何でさっき裸だったのに気にならなかったんだろう。
口の中でぶつぶつ呟いていると、葵も湯船に入ってきた。
流石にタオルは巻いていない。
落ち着け、俺。
ハイネは結局どうなったのだろうか。
ぐるぐるとそれだけが頭の中で回っている。
葵の肩が震えているのが目について、何だかとても愛おしく感じられた。
抱き寄せて、頭をなでる。
葵の体がこんなに小さく感じられたのは初めてだった。
夕飯を済ませて、二人で手をつないで眠った。
部屋の隅においてあるコンポでハイネの歌う曲をかけながら。
中には、リリの歌っている曲もある。
それから数日後。
歌姫は歌うことを忘れた。
「……」
殆ど個室と言っていいぐらいの、こじんまりとした空間にいた。カフェの中に扉のついた個室がいくつかあり、頼んだメニューは何故かメイド服を着たお姉さんが持ってくる。
葵の言っていたカフェ(ここ)で待ち合わせるよう連絡をとって、俺は水嶋ハイネを捕まえた。
その流れで、ハイネを放置するわけにはいかず、一緒にお茶でもということになったのだ。
しかし。俺も葵も、目の前の存在に何と声をかけたらいいのかわからなかった。
そんな俺達とは裏腹に、彼女はケーキを胃に収める作業に取り組んでいる。まるで何事もなかったかのように。
「これ、おいしい、ですね」
うわあ何この子の笑顔。綺麗すぎる。
「う、うん」
葵は葵で、彼女を見つめたままだった。
水嶋ハイネと、昼下がりのティータイムなんて思いもしなかったイベントだ。
喜ぶべきなのだろうか。
「…食べない、んですか?」
疑念の抱かれた視線がつきささる。
「あ、うん、食べるよ。食べる」
取り乱す俺。情けないにもほどがある。
「あの、君はその……」
葵が口を開く。
「はい、何で、すか」
変なところで言葉を切る子だ。
「水嶋ハイネさんだよね」
そこだけを小声で、葵は言った。
「…はい」
ゆっくりと口の中にあるケーキを飲み込んでから、彼女は言った。
「ご挨拶が遅れ、て、失礼しま、した」
彼女は姿勢を正して、二人を正面に見据えた。
「改めて…私は、水嶋ハイネ。世界が生んだ一つの意識を持った人間です」
「うん、知ってるよ。あたしたち、あなたのファンなの」
葵が優しく返す。
「あたしは葵、こっちは四塚」
葵が俺の分も紹介をしてくれた。何と楽なことか。一応挨拶だけはしておこう。
「それで、何であそこにいたの?」
「……少し、息抜きがしたくて」
少しだけハイネの表情に陰りがさしたように見えた。
「息抜き…?」
「今日で、最後ですし……」
最後、という言葉に葵が反応した。
「ええ、本当にお疲れ様…まだ終わってないけど。すごいよね、まだ14歳だっけ?尊敬しちゃう」
葵が饒舌になり、少しだけ打ち解けたような錯覚に陥る。
「その…世界崩壊のことも、不安なんです」
重い空気の中、葵は言った。
「ね、色々聞かせてくれない?」
「いい、ですよ」
ハイネはにっこりと笑った。
二人が話し始めたのを見て、俺はソファに身を沈めた。
二人の声が響く中を微睡みに揺れる。うつらうつらとしていて、話は段々遠くなる。やがて深淵が訪れた。
フカフカのソファは俺を悩ませて、綺麗に沈んだ。それが心地よくてどうも眠ってしまったらしく全く記憶がない。結局、葵がハイネと話をしていただけで時間は過ぎていた。その間にハイネがどれだけのケーキを胃に収めたのかは見当もつかない。ただ、顔の高さぐらいの量の皿がテーブルに置れていたことだけを記憶している。
「あ…ごめんなさい、私、行かなくちゃ」
ハイネがそう言って席を立った。
「色々聞かせてくれてありがとうね」
葵も立ち上がり、ハイネを抱きしめる。
ハイネは驚く様子もなく、葵を抱き返す。
「頑張ってね」
「はい」
端から見れば微笑ましい風景なのだろうか。
いつの間にか仲良くなった二人に少しだけ嫉妬を覚える。
「それじゃ、会場で」
そう言ってハイネは店を出ていった。
「…はー。本物のアイドルと話しちゃった」
葵は嬉しそうだ。対照的に俺は少し不服だが。
「あ、そろそろ行ったほうが…どうしたの」
俺の表情を見て葵は言う。
「や、別に」
テーブルに置かれたカップに口をつける。冷めた紅茶を飲み干して、拗ねた子供の真似をした。
「何よ、また拗ねてるのね」
仕方ない子だなと、葵は俺の正面に立ち上がる。
「よっと…」
何かする気…ってこれ対面座位…。
足の上に跨られて俺の心臓の鼓動は高鳴る。
「さて」
次の瞬間、額に衝撃と鈍い音が響く。
「い……ってえ!?何すんだよいきなり!!」
思わず叫んでいた。少し赤い額を抑えて葵は言う。
「君が拗ねるからでしょうに。あのね、何でもかんでもそうやってすぐに拗ねるのやめた方がいいよ」
真剣な表情で葵は四塚の瞳を凝視する。
「な…俺が悪いわけじゃ」
「何を言ってるのかしら。君ねえ……」
それから始まる口論に、大量の時間を要した。
気がつけばライブの時間まで後少し。俺たちは仲直りもせずにライブ会場へと足を向けた。
ざわめく会場。
席は何故かアリーナ席だ。これもファンの成せる技だと葵は言っていた。
「……」
互いに言葉は発さず、隣あって座っているだけ。
葵は、俺のことを心配して言ってくれたのだ。わかってる。
「……葵」
「何よ」
声にトゲがあるような感じがした。
「…別に」
言い切れないまま口を閉じる。
ハイネはどうしただろうか。
俺はそんなことを考えていた。
「何をやってたんだ」
一瞬だけ、体が震えた。
「リハだって言ったのに、今までどこにいたんだ」
千字がハイネに詰め寄る。後ずさりしている途中で、足を何かにひっかけた。ソファに寝そべる形で倒れた。
「ごめんなさい」
「それで、それだけで済むと思ってるのか?」
千字の顔が近づく。
「……」
ああ、こんなにも近くに。
兄様がいる。
二人だけ、私と兄様の――。
他のメンバーは既にミーティングを終えていてここにはいない。
「いいか、今日、このツアーで最後のライブだ。そのリハにメインのお前がいない、連絡もつかない。どれだけ心配したと思ってるんだ」
がっしりと肩を掴まれて、瞳を真っ直ぐに見つめあって。
ああ、兄様。こんなにも兄様は、私を想ってくれているのに。
「聞いているのか、ハイネ」
私は悪い子ですね、兄様。
涙が出てしまう。
それは、兄様が怖いからではない。
「泣いたって……はあ、わかった、落ち着いたら来い」
兄様はそう言って部屋を出た。私が涙を見せると、いつも逃げるようにしてどこかに行ってしまう。
届かない。私の想いは届かない。涙は止まらない。悲しいんじゃない。寂しいんじゃない。私を見てくれている兄様がいてくれることが嬉しいのだ。でも兄様は、本当の意味では私を見てくれていない。血が繋がっているとか、そういうのは関係なしに。私を見てほしいのに、見てくれない。
「兄様……」
世界が崩壊する前に。私は兄様と結ばれたい。鏡の前に立つ。映る私の姿はなんだか小さく見えた。
意味ありげにお腹をさすってみる。このお腹に、兄様の子が。なんて。そう考えると自然と笑みが零れる。私と兄様の間には、そういった事柄は全くもってない。ただ、そうなれたらいいといつも思っている。私は兄様を愛している。かつて兄様が愛したあの子よりも。私の血肉となったあの子よりも。私から兄様を奪おうとしたあの子よりも。
「私と兄様の……子」
言葉にすればそれだけ気持ちは高ぶる。
私は兄様を愛している。
ガヤガヤと人も増えてきていた。これだけの人がどこにいたのだろうと言わぬばかりの勢いだ。
「……人いっぱいだね」
ボソッと葵がつぶやく。
「え…あ、うん」
俺は返す言葉が見つからなかったので適当に返事をした。
「ハイネちゃん、いい子だったね」
いきなりハイネの話を振られて当惑する。
「そうなの?俺寝てたから話全然聞いてなかった」
ため息が葵の口から漏れる。
「なんだよそのため息」
「べっつにー…脳天気だなって思っただけ」
にやりと笑う葵、俺はなんだか悔しくなる。
「はっ…」
言いかけた時、会場の灯りが全て消えた。ステージだけに残された灯りが俺たちを照らす。わあっと湧き上がる歓声。
ステージの端からメンバーが出てくる。
最後にハイネが出てきて、更に声は跳ね上がる。
葵も俺もただ見入っていた。
誰もが声をあげる中で、おとなしく見ていた。
曲が流れ始め、会場は静まる。
「……歌います」
ハイネの声が高らかに響いて、歯車が廻りだした。
アンコールまで含めて、ハイネは歌いきった。今思えば、俺たちは彼女を止めることができたはずだ。まさかあんなことになるなんて、誰が予想しただろうか。
「告白します。私は、ある方の為だけに歌ってきました」
興奮覚めやらぬ中、ハイネは語りだした。
「その人は、私をよく知っていて、私を励ましてくれる、素晴らしい方なのです」
会場は静まり返る。
葵は微動だにせず、俺も彼女の声に聞きほれていた。
「その方のためになら何だってできます。私は何でもする所存でいました。今は、いないメンバーですが、このグループ創設時のメンバーで、リリという子がいました」
リリ。まだ彼女たちがHAINEとして活動していたころにいた女性ボーカリストだ。葵の持っているCDにはリリの歌った曲がいくつかあったはずだ。
「リリは、私より一つ年上なだけなのに、私よりも歌うのがうまくて、とても可愛くて他にも何だってできました。まるで絵に書いたような、そんな子でした」
ハイネの口から、スルスルと言葉が紡がれる。
「私はそんな彼女が好きでした。とても好きで、同時にとても嫌いでした」
一部でざわめく音がした。
「私が喋っているの、邪魔しないで」
音のした方を一瞥しハイネは話を続ける。
「私は単純に、リリはすごいと思っていました。尊敬の念すら抱いていたのです。でもリリは、私が持ち得ていて、自分にないものを利用してあの方に近づいていきました」
「ハイネ、どうした」
ハイネの様子がおかしいとでも思ったのだろうか、千字が持ち場から離れてハイネに歩み寄る。
「来ないでください兄様」
到底、ハイネの口から出たとは思えないぐらいの迫力のある声に千字の足は止まる。
「お前何を言う気――」
「全部、ですよ。私を止めたって、無駄です兄様」
声に影があるような、生ぬるいような感覚が会場を支配する。それは呪詛のようにも感じとれる。
「もうすぐ、世界が崩壊する。ここに集まってくださった方々のどれだけが、それを懸念し、恐れ、逃げ惑うのでしょうか」
両手を掲げて、ハイネは天を仰いだ。
「ああ、私は、そんなことがどうでもいいぐらいに」
葵が手を握ってくる。
俺はその手を握り返した。
「――どうでもいいぐらいに、ある方を、兄様のことを愛しています」
会場から黄色い歓声があがる。歌姫の衝撃の告白を、皆が受け止めた。千字はその場から動こうともせずに、いや、動けないのかもしれない。
「私の話はまだ続きます、静かにして」
ハイネの言葉には妙な支配感があり、声はピタリと止む。
「私が持ち得たのは兄妹という鎖、血縁関係というもの。リリは他人。ただそれだけで兄様に近づいて、私から兄様を奪おうとした。どうすれば兄様は私を見てくれるのか。どうすれば兄様に近づけるのか。どうすれば兄様の隣にいることができるのか」
ハイネの瞳に涙が溜まっていた。
「だから私は考えた。リリを排除しようと。リリを越えるために」
一陣の風が吹き、ハイネの髪を揺らした。
「リリがいなくなったのは、丁度三年前の今日。あの日、メジャーデビューした私たちは、皆でお祝いのパーティーをした。皆、楽しく騒いで、時間は過ぎていった。私は兄様に褒められたかった。でも兄様は、他の皆のところに行っていてそれどころではないみたい。宴も終わりに近づいて、リリと兄様がいないことに気づいた私は二人を探しに部屋を出て、見てしまった。二人が抱き合い、キスを交わしているのを」
殆ど叫ぶようにして、ハイネは涙を拭う。
「探さなければよかった。褒められたいなんて思わなければよかった。私が欲張ったから。私が」
会場全体がハイネに飲み込まれていた。
「――その時は、動揺して声がかけられなかった。まるで、殺人の現場を見た、そんな雰囲気の中にいた。そこで初めて、兄様に対する気持ちに整理がついた。最初は、よくわからなかったけれど、やっとわかった。私は兄様を愛しているのだと」
ハイネは、感情が内に籠もりそれが吹き出しそうになるのを抑えているように見えた。
そしてハイネは言ったのだ。
「だから私は、リリを殺した。彼女を殺して、この血肉とすべくリリを。リリであった肉塊を」
どこからかナイフを取り出して、喉に向けて言った。
「食べたのです」
ハイネは微笑み、自分の喉にナイフを。
だだっ広い平野につくられたステージ。
そのステージの上に少女が一人。
観客は満員御礼、フェンスを破り乗り越えた客もいた。
「私が私であるために、私は私であるということを諦めました」
少女は呟く。スポットライトを浴びて、月光に照らされている。
「それは私を殺すということではなく私を無くすこと」
風に揺れる髪が、月光の下に影をつくる。
「私は私。でも、このままじゃ満たされない。そんな時出会ったあの方に身を捧げ、あの方の望むように努めました」
誰も物音一つ立てずに聞き入っていた。
「でも、私はあの方の望むようにはなれませんでした。私は嘆き、願わくば私が私たりえるものを、私が私自身であるということを諦めるようにと」
少女は微笑み、両の腕を広げて掲げた。
まるで赤子をとりあげるかのように。
「私は願ったのです。水嶋ハイネである私を、この世界から消してくださいと」
九月十一日、天気 晴れ。
九支枝殺害のニュースから二日後。
軽快なギターの音に、耳を傾けていた。
耳から脳に入り込んで、焼き尽くような音色は私を魅了する。
離れない。何からもどこからも。
一度ならず、何度も。
不協和音を奏でた音は重なり一つの戦慄を産みだす。
それは音を束ね、巻き込むもの。
高音も低音も、すべて貫いて砕ける。
私を違う世界に連れていくのはその音。
私は呼ばれてそこへ行く。
いつも、あの方のことを想っている。
ああ、私はいつも、あなたのことを。
俺が他人に促されて特定のアーティストの曲を聴き始めたのはまだ近年のことだった。
周りに流されるのを嫌っていた当時の俺は、他人の知らないものを探すのに夢中だった。周りが到底知らないようなものを自分だけが知っているという優越感に浸りたかっただけの話ではあるが。
発端は葵の持っていたインディーズのCDからだった。
HAINEと名乗るグループだった。
今でこそ有名ではあるが、まだこの頃は活動を始めたばかりで、名もなき歌声で一部を熱くさせた。初期メンバーは八人。
ことあるごとにメンバーの入脱退を繰り返して、一時期はアングラシーンでの活躍も危機的なものを感じていた。
そんなHAINEはある日を境に人気を得て、表舞台に飛び込んできた。
名をHAINE改め“水嶋ハイネ”として。
メインボーカルのハイネは、幼少の頃から歌うことが好きで、物心つく前から音楽活動をしていたと何かの雑誌で読んだ。
そんな水嶋ハイネが行う野外ライブに来ることになったのは葵の配慮だった。
同級生である九支枝が殺され、気が滅入っていた俺を外に連れ出そうと彼女は励ましてくれた。
その前に、買い物でもしようと荷物持ちを任された。
「ねえ、どっちがいいかな」
両手に一着ずつ服を持ち首を傾げる葵。
「いや、だったらこっちの方が葵には似合うと思うけど」
別の服を手にとり、葵の身体にあてがう。
「えー」
子供のように口を尖らせる葵は、じゃあと言ってそれを試着しに行った。
この国は、至って平和だった。世界が崩壊するだなんて誰も信じていないかのように生活をしている。もう少し危機感持ったらどうだろうか。
「ちょっとーこんな感じなんだけどー」
試着室から首だけ出して反応を伺う葵。
「今行くよ」
重たいと感じた腰をあげて、葵の待つところへ向かう。
天気は曇り模様、夜には晴れるといいが。
私は壊れるのが怖いのです。愛したあの方が、私を壊そうとするのです。
私があの方を愛しても、何も返ってきやしないのに。
「ハイネ、リハ始まるよ」
背後から声をかけられて驚く。
「あっ、はい、いきますっ」
椅子から立ち上がりろうとして躓く。
「っと、大丈夫か」
支えてくれたのは声をかけた本人、陸堂千字。
HAINE創設時からのメンバーで、ハイネが幼いころから尊敬の念を抱く唯一の存在。
ハイネの実の兄である。
「あっ、大丈夫…うん」
「はい、きをつけ」
言われて鏡の前で直立の姿勢をとらされる。
「髪、やっぱあげた方がいいんじゃないか」
陸堂の指がハイネの腰まである髪を梳いた。
鏡の中で二人の視線が合う。
よく似た兄妹だとハイネは思う。
「…このままでいい、です」
目を伏せて、陸堂にもたれかかる。
「甘えたがりのお姫様、か」
陸堂は微笑む。
「甘えてるわけじゃないんです…」
とは言いつつもハイネは陸堂の腕に絡まるようにしている。
「そうか、とりあえずリハが先だよ」
ハイネをきちんと立たせて、自分の方を向かせた。
「いいかハイネ、今日はライブ最終日だ。気を抜かないようにな」
兄ではなく、メンバーを束ねるリーダーとして、彼は言う。
「はい…」
ハイネは頷きながらも陸堂に抱きつく。
「後だ、後」
少女を引き剥がして陸堂は部屋を出る。
陸堂が立ち去った後、ハイネは呟いた。
「……最後、ですしね」
鏡の中に映る少女は微笑みを絶やすことはなかった。
「買いすぎだ、これは」
葵の後ろで、両手に袋、頭上にいくつか箱を乗せて動かない四塚が言う。
ショッピングモールの中を、横断しながらなので、多少ふらついている。
「だって君がどれも似合うって言ってくれたからだよ」
満足した瞳で葵は荷物を眺める。
「お母さんの買い物じゃないだけマシでしょ?」
「ま、そうだけどね」
確かに葵の言う通り、母の買い物の量は尋常じゃない。気持ち悪いぐらいの量を買うので、何とも言い難いのだが。
「で、ライブ何時からなの」
「んー……後六時間ぐらいしてから」
何だその答え、何時からって聞いたのにそんな答えかたがあるかよ。
「会場すぐ近くだし、大丈夫よ」
ニコニコとしながら葵は言う。
「ま、お茶でもどう?あたし美味しいお店知ってるんだ」
俺は無言で頷く。
「じゃあ決まりねっ」
嬉しそうにはしゃぐ葵を見て息をつく。
俺より先を歩いて、いい気分なのだろう、鼻歌なんか歌ってやがった。
どんっという音がして、衝撃に身体が揺れる。
「ひょおっ!?」
情けない声をあげて地面への設置面積の範囲が50%を越えた。荷物は全部投げ出してしまった。
「え、何、って四塚!?」
葵が振り向き、駆け寄ってくる。
「…いってえ」
起き上がって服の汚れを払う。
「あうう…ご、ごめんなさい、大丈夫ですか…?」
声のした方向、尻餅をついた子供がいた。透き通った声だった。
「まあ…平気だけど、君のほうは」
「大丈夫、そっちこそ怪我とかない?」
俺の台詞をぶった切って葵が声をかける。
「はい、全然、平気……です」
特にどこも、とまでは言わなかったが、どうやら無事らしい。
「よかった」
葵はにっこりと笑って、未だ尻餅をついたままの相手に手を差し出す。
その手をとり、ゆっくりと立ち上がるその身体。目深に被った帽子にサングラス、腰まである髪。全体的に細いシルエット。その華奢な体つきと胸の膨らみから、女の子だとわかる。しかしその格好はまるで自分の正体を隠すような――。
「あ、あの、すいませんでした。少し、急いでいたので……」
どこかで聞いたような声。
「いいのよ、気にしないで」
ぶつかったのは俺なのに葵が答えてどうするんだ、そう思って、荷物を拾う。
「あ、私もお手伝いします」
彼女は一番近くにある荷物を拾ってくれた。
荷物をすべて拾い終わると、彼女はそれじゃあと言って立ち去ろうとした。
「あ、ねえ、ありがとうね!」
葵が慌てて声をかけると、彼女は走りながら振り向き手を振って、前方から来た見知らぬ相手にぶつかった。
「あー…」
俺も葵もあいた口が塞がらない。
とりあえず助けることにして、彼女に近づく。
「ごめんなさい、あたしの友人が…」と葵は言っている。どうも事を穏便に済ませる方向で相手に声をかけているらしい。彼女はといえば、帽子とサングラスがぬげてしまい、顔を伏せて座り込んでいる。
「ほら、これ」
近くに落ちていた帽子とサングラスを持って彼女に近づく。
「あ…ありがとう、ござい、ます…」
顔をあげた彼女を見て、息をのんだ。
まさか、そんなはずはないだろう。
でも、まさか。
思ったことが、自然と口に出た。
「水嶋、ハイネ……?」
世界の鼓動を感じた。
周囲の視線が一気に集まる。
「え…あ…」
彼女の顔が青ざめて、俺の手から帽子とサングラスをひったくって走り出した。
一瞬の出来事だったが、俺は彼女を追うことにした。
何故、こんなところに彼女のような人物がいるのだろうか。
そんなことを考えながら、彼女を追いかけた。
何故か、このまま放っておいたらまずい気がした。
「 歌 姫 」 始まり。