天候は回復していない。
かろうじて今、晴れ間が覗いているだけだ。
羽織の男は口を開く。
「どうかしましたか」
余裕のある笑みを口元に浮かべていた。
「あんたに……聞きたいことがある」
「何でしょうか。私に答えられることでしたら」
風が吹きだした。強い風が。
聞くのを拒もうとする俺がいる。
もし、斎原の情報に誤りがあったら。
全く関係ない人間を疑うことになる。
「いや……何と言っていいか」
落ち着け俺。
「その羽織、綺麗だよな」
何を言い出すのだいきなり。しかしそれしか言えなかったのも事実。
「え?ああ、これですか。古い友人に譲ってもらったのですよ」
嬉しそうに言う男の瞳は輝いている。
「殺人鬼のことは、知ってるよな?」
男の顔がぽかんとする。
「殺人…鬼、ですか?」
「とぼけるな!…あんた、月曜の夜、女を一人殺しただろう!」
言い切ってしまった。
後には引けない。
「おとなしくしてれば、危害は加えなうおっ!?」
言い切る前に真正面に来た拳をしゃがんで避ける。
「何を言い出すかと思えば…初対面の人間を疑うなんて、どういう世界で生きてきたのかしら」
拳の主は、男と一緒にいた女の子のものだった。
シャツに薄手のベスト、動きやすそうなフレアスカートを履いた女の子。上から下まで黒で統一している。
一見、弱々しく見えるがいたって真逆の印象を受けた。
しかもオーバーニーとか。葵だったら絶対やってくれないような格好だし。
「いえ、的確な判断なのかもしれませんね」
彼女は、構えた。
見たこともない構えで、俺を牽制しようとしている。
「さあ、かかってk」
ごつんと鈍い音がした。
彼女の頭上に、男の握りこぶしが乗っている。
「な…なにするんですか御津耶さん!」
頭を抱えて、男に怒鳴り散らす彼女。
「あれほど君には喧嘩はいけないと言ったのに、いきなり何をしているんですか」
有無を言わさぬ男の声に、彼女はひるむ。
「いいですか、こちらではおとなしくするようにと言ったでしょうに。なのに何故君は」
その後、ぐちぐちと男の小言が続いた。
完璧に俺は置いてけぼりをくらっている。
五分ほどして、やっと男がこちらに注意を向けた。
「それと、あなたもです」
あれ、標的俺?
「他人を疑うのはいい心がけだと思います。ですが、いきなり殺人鬼扱いはやめてください」
「な…だっ、あんた、そのカッコ」
今聞いた、とは言いがたく、言おうかどうか迷ってしまった。
「どこから情報を得たのか知りませんが、あなたに何かを言われる謂れはぼくにはないのです。無論、燐、彼女もです」
道の端でしゃがみこんでいじけている女の子に目を向ける。
燐、という名前なのか。
「だからこの羽織は友人に譲ってもらったのだと言ったでしょう」
何だか怒っていらっしゃる。
「あ、いや…」
そうだ、どうしたんだ俺は。
決め付けてしまって、一体どういうつもりなのだ。
何だか立場が、悪くなってしまった。
「はあ…もう行きましょう。あなたに構っている時間はないのですよ。今夜の宿もまだ…」
男は閃いた!という顔で俺の肩をがっしとつかんだ。
「ぼく、今あなたに言われたことがすごく辛くてですねえ」
顔が近づいてくる。
「それで、まだここの街は来たばかりなので、よくわからないのですよ」
更に顔が近づいてくる。
「というわけで、あなたのお宅にお邪魔させてもらいたいのですが」
キラキラとした笑顔で男は更に顔が近くなる。
「おねがい…します…」
いつの間にか、燐という女の子も一緒になって顔を近づけてきていた。
「……」
うっかり、無言でうなずいてしまった。
迫力に負けた。
「よっし、今夜の宿確保ですよ!やりましたね!」
「流石御津耶さんです!」
男は燐を抱き上げて回転している。
もう、何だか疲れてしまった。
俺、今夜寝れるのかな。
そうしているうちに、ずいぶんと雨雲が近づいてきていた。
俺は二人を家に案内することになった。
雨が降り始めたのは、家についてすぐだった。
この男が犯人だと疑っていたのに。
何故かそうだという気にはなれずにいた。
「どうぞ、あがってください」
俺は先に玄関を開けて、家に入った。
和室、使ってないから掃除しなきゃいけないなと思いながらも、葵を探す。
「……おきゃくさん?」
背後から声をかけられて身体がはねた。
「びっくりした…脅かさないでよ」
部屋からは出てきたんだな、と思いながら振り向く。
「って葵何その格好!?」
ほとんど裸に近い格好で、葵は目をこすっている。
ものすごく眠たそうで、今にも寝そうな雰囲気だった。
下着はつけているのだろうが、何故か俺のシャツを着ている。
というか、シャツだけ。
「おやおや、大胆な…」
「綺麗ですね…」
それぞれがそれぞれの意見を出した。
いや、確かにそうだけども。
と思ったが言わない。
「と、とりあえず、こちらへ…」
二人をリビングに向かわせて、葵に服を着てくるように言い聞かせた。
前途多難、むしろ全部多難だと思って。
「ご紹介が遅れました、ぼくは神崎御津耶。仕事は宝石商をさせてもらっております」
「助手の阿佐酉燐です」
男が頭をさげ、それに続くように燐も頭を下げた。
「宝石商、ですか」
お茶を差し出しながら、着替えてきた葵が問う。
「ええ、この街には古くからの知り合いがおりましてですね、用事で寄ったついでに、仕事の方をさせてもらおうかと」
男はどこから取り出したのか、大きな鞄をリビングの床に置いた。
がちっと大きな音が三度して、鞄が開く。
そこには、数々の箱が並べられていた。
「こちら、ですねえ」
その箱をあけると、中には硬貨大の宝石が入っていた。
「綺麗……」
葵が目を丸くしてうっとりとしている。
「お目が高いですねえ、これは」
神崎は商売を始めるかのような口調で葵と話していた。
一方俺は。
目の前に座っている燐とメンチを切りあっていた。
今なら、互いにテレパシーで会話ができるのじゃないかと思えるぐらいに。
今にも向こうが口を開こうとしたとき、空気を読んだように神崎は言った。
「燐、やめなさい」
その声に従うように、燐はばつが悪そうに俺から視線をそらした。
「それで、何でその宝石商さんがうちに?」
葵の問いに、神崎は答えた。
「いえ、実はですね、弟さんに殺人鬼扱いされまして」
あれ、今その話するの?
「殺人鬼、ですか…?」
葵の瞳が翳る。
「おや、ぼくなにかわるいことを言いましたかねえ…」
「みたいですね」
間髪入れずに燐が突っ込む。
俺も何も言えなかった。
神埼も燐も、今夜は泊まっていくことになった。
外では土砂降りの雨が降っていた。
夕食の席で、宝石商は語った。
「実はですね、ぼくたちは他の世界から来たのですよ」
俺と葵は持っていた箸を落とした。
「え?他の世界?」
聞き返すと、燐が答える。
「ええ。正確に言えば並行世界です。わたくしどもの世界と、この世界は非常に似ています。というか、同じ世界の、他の可能性を歩んだ世界なのです」
並行世界。聞いたことはあれど、存在するだなんて、思ってもみなかった。
「私たちは、旅の途中なのです。こちらには、知り合いがいるので立ち寄ったのですが…」
燐の顔がくもった。
「この台風のおかげで、列車が動かないのです。急いでいるのですが…」
何かと訳ありなのはよくわかった。
一人納得していると、葵が目を輝かせて言った。
「よ、よかったら、そっちの世界のこと話してくれないかな」
しまった、こいつこういう話に目がないんだ。
「いいですよ、ね、御津耶さん」
味噌汁をすすっていた神崎が咳き込む。
「ごほっ…まあ、泊めてもらうお礼も兼ねてですからね」
「はい、ではまず…」
燐の話をまとめると、こういうことらしい。
彼女たちのいる世界では、文明の発展こそこちらと同程度ではあるが、交通手段は主に蒸気機関が発達している。
基本的にはこちらの世界と同じで、国の形も言語も大体同じ。
戦争も何もない、こちらの世界じゃ見られないような風景も存在するとか。
夜だけの街もある、昼だけの街もある。
宝石鉱山だって、まだまだたくさんあるらしい。
「なんだか、夢みたいな話ね」
食後の一服を嗜みながら、葵が言った。
それぞれの目の前に、カップを置いてそこに紅茶を注いでいた。
「まあ、こちらの世界の方が安全ですけどね」
淹れられたばかりの紅茶を平気で飲み干して、おかわりと言った神崎。
「私は、どちらも好きですわよ」
と、葵の手伝いをしながら燐が答えた。
「ふうん…」
意外と深い話だなとは思うが、実感がわかない。
ひょっとしたら俺たちはだまされているのではないかと一瞬よぎった。
いやでも、まてよ。世界崩壊を前にして、何も不思議なことなんてないんだよな。
ううん、何と言ったらいいのやら。
その後、燐が風呂へ行き、それに次いで神埼が入った。
湯からあがってきた燐の髪を、葵が乾かしていた。
俺はいつものソファで寝そべることができないので、リビングの椅子を持ってきて、二人を見ていた。
「綺麗な髪ね」
「…そんなこと、ないです」
俯き加減と髪の長さが相まって、ぱっと見貞子に見える燐。
着替えがないので、葵の使っていないパジャマを着ている。
外はまだ雨だ。天気予報じゃ、今夜から明日の夜にかけて一日中降り続くのだとか。
「私、御津耶さんのこと、好きなんです」
「うん、わかる。そう見えるもの」
「そう、見えますか。……私、奉公に出ていたころに御津耶さんに拾われたんです。もう十何年も前のこと」
燐はゆっくりと口を開いた。
「そのお屋敷の旦那様、とても厳しい方でした。私はいつも失敗ばかりで、旦那様に叱られていたんです。ある日、御津耶さんが商売をしにきて…」
燐は、少しずつ、少しずつ息をはいた。
「そのとき、私は旦那様に叱られていて、蔵に閉じ込められるところでした。御津耶さんは、前にもお屋敷に来てくださっていて、その時の代金を請求しにきていたのです」
俺は半分流して聞いていた。
葵は、いつの間にか乾かす手が止まっている。
「御津耶さん、私を見て『代金の代わりにその娘をくださいな』って言ったのです」
くす、っと笑う声がして、俺は顔をあげた。
燐が微笑み、嬉しそうに言った。
「だって、御津耶さん、お金はいらないから私をって…役立たずの私を、ですよ」
それは自嘲の笑みではなくて、感謝のこもった笑み。
「嬉しくって、嬉しくって。もう泣いて泣いて、御津耶さんに飛びついたんです。やっと解放された、って」
かちゃり、と小さな音がして風呂場のドアが開いたのがわかる。
神崎が風呂からあがったのだろう。因みに、彼には俺のシャツとパジャマを貸している。
「その時から、私にとって御津耶さんは大事な人でした。そのころから、好きだったんです」
リビングからは、風呂場が見える。しかし、二人のいる居間からは見えない。
神崎と目があった。
彼は、神妙な面持ちで耳を澄ませていた。
「もう、ずっと一緒にいるんですけどね。あの人、鈍感だから……」
また、燐は笑う。嬉しそうに、笑う。
「…………恋する乙女なのね」
ずっと聞き役に徹していた葵が、燐の頭を抱いてはしゃぐ。
少し苦しそうに見えたが、気にしない。
っていうか嫉妬してしまうなこれは。
神崎は、部屋に入り辛そうにはしているが、まんざらでもなさそうな顔をしていた。
夜はまだ長い。
俺は、神崎を疑ったことを謝らなければと思っていた。
続く。