人が、人を殺す時。
若しくは、自分を傷つける時における、その実行方法。
刺す。
貫く。
射る。
抉る。
突く。
切る。
裂く。
砕く。
焼く。
刻む。
削ぐ。
剥ぐ。
この場合は、突くの変化系である突き立てるが正解なのかそれとも、刺すの変化系である刺し貫くが正解なのか。
どちらにしろ痛さは尋常ではないだろう。
齢十四の少女、ハイネがとった行動は常軌を逸していた。
ヘッドセットから会場に響いた、柔らかな肉を鋭利な金属で破る音。
ハイネは自らの喉に、取り出したナイフを突き立てた。
吹き出る鮮血。
ステージの床から最前に座っていた観客までもがハイネの血を浴びた。
崩れていくハイネの顔は、どこかやり遂げたという恍惚とした表情だった。
その身体を支えたのは、他ならぬ千字だった。
「い、や……いやあああああ」
どこからか聞こえてきた絶叫が会場をつんざく。
静まり返っていた会場はまた沸きだしたかのように見えた。
否、そうではない。
それは眼前の光景から逃避するための行動だったのだ。
皆が一斉にパニックに陥る錯覚を覚えた。
「そんな……」
葵が走り出そうとしたのを、俺は繋いだ手を引いて止めた。
「離して…あたし、あの子を」
「駄目だ!騒動が収まるまで待つんだ」
俺と葵の視線が交錯する。
葵は唇を噛んで、俺の胸にその身を預けた。
どよめきたつ会場内、スタッフが観客を誘導していく。
俺たちはただ見るだけしかできなかった。
ハイネの傍に駆け寄ったメンバーと、ハイネ自身を。
ハイネは自分を取り巻くものを、抽象するもののことを考えていた。
それが仮令、どんな形をしたものであっても必要なのかどうかを。
リリの顔が脳裏に思い浮かんだ。
自分を抱えている、千字の顔が歪んでいた。
そういえばあの人、葵さんと四塚さんはどうしただろうか。
来てくれていたのは確認できたから、多分。
ああ、兄様。
貴方のことを思えば思うほど、鼓動は高鳴ります。
貴方がいてくれたから、私はここまでできました。
どうか御体を壊さぬよう。
ごめんなさい。
私のせいで、せっかくの兄様の夢を壊してしまって。
でも、いいでしょう?
貴方がリリと一緒に過ごしていた時の幸せに比べたら、これぐらいの苦痛はどうってことないでしょう?
私はこのま、ま、リリ、に会いに行、きます。
ハイネの意識はそこで飛んだ。
いつのまにか雨が降りだしていた。天気予報では何も言っていなかったと思うが、それ故に傘も何も持っていない。外れる天気予報しか放送しない世界だということを忘れていた。
俺は茫然とする葵の肩を抱いて声をかける。当たり障りのなさそうな言葉を選んだ。
「夕飯、どうしよっか」
会場から押しやられた他の客に混じって、俺たちは立ち尽くす。雨の当たらない会場内の一部は開放されていて、ざわつく人々からピリピリした空気が漂う空間になっていた。
「……食べたくない」
予想していた通りの答えが飛び出してきて、面食らう。
いつもなら、平気な顔をして俺を引っ張っていくのだが今回ばかりはそれがない。葵の中では相当のショックだったのだろう。
憧れと羨望の入り混じった気持ちをハイネに対して持っていたのだから。
それに、俺を元気づけようと連れてきてくれたのにこうなるとは思っていなかったのだろう。
事実、俺も同じ気持ちだった。
たった一瞬で、水嶋ハイネという個が形成していた世界が崩壊したのだ。
俺も正直やりきれない。だけど、それ以上にメンバーの絶望と、葵のことを考えたらそう大したものではない気がした。
「……帰ろう、姉ちゃん」
俯く姉の手を引いて俺は歩き出す。傘も何もささずに。
人ごみに紛れ込んで、もやもやした気持ちを拡散させようとする。うまい具合に処理できないから、段々とイライラしてくる。
「っ……痛い…」
夜の街の喧騒を早足で抜けていく。
「ねえ、四塚、痛い」
肩がぶつかっても、人が邪魔でも平気で足を進めた。
「痛いってば……!」
つないでいた手を引かれて、思わず歩みが止まる。振り返ると姉が肩を振るわせていた。
「あ…」
前を向いた姉の顔には少し翳りが見えた。俺は何だか申し訳なくなって、人目を気にせずに姉を抱きしめた。
「ごめん、姉ちゃん」
「…………て」
掠れた声で姉が言う。
「……何?」
「どう、して…何であの子は…」
俺も同じ気持ちだよと、言う代わりに姉を更に抱きしめた。
そうしながらも、ハイネのことを考えていた。何故彼女はあんなことをしたのだろうかという疑問。
あのカフェでハイネが最後だと言っていたのは、このことを指してのことなんじゃないかと。
だとしたら、あの時一緒にいた俺たちが彼女を救ってやれる可能性はあったはずだ。
俺は寝ていただけだが、姉はずっと喋っていたのだからどこかで気づけなかったのだろうか。可能性を求めると求めた数だけ返ってくる。
世界崩壊の日まで後少し。
何もできないでいる姉弟は帰路を辿った。
日付が変わる少し前に俺たちは家についた。
「ただいま」
家の灯りはついていなかったが、一応声だけはかけた。
両親は今日も旅行に行っている。
しばらくは帰ってこない。
玄関の鍵をかけて、一息つく。
「姉ちゃん、靴脱いで待ってて」
二人して濡れネズミなので、どちらかがタオルを持ってくるのが望ましい状況だった。
しかし、姉は微動だにしない。 ああああああああ
仕方がないので俺がタオルを取りに行く。床が濡れたが、後で拭けば大丈夫だろう。別に気にもとめなかった。
ひとまず先に自分の着ていた衣類を洗濯機に突っ込み、半裸になる。
ついでにバスタブに湯を張る。
あの後雨は更に降って、台風並の暴風雨になった。
よく無事に帰ってこれたなと俺は思う。
タオルを持って玄関に戻ると、姉はただそこに立っていた。
「ちょっと、姉ちゃん」
未だ動く気配のない姉を呼ぶ。
下を向いていた顔をあげた。
目が赤いし、頬には涙の筋がいくつかあり、いつのまにか泣いていた様子が窺えた。
「……葵、おいで」
ゆっくりと近づいてくる葵の服を脱がす。
「風邪、ひきたくないだろ」
靴と上着を脱がして、風呂場へと連れていく。
「服脱いで待ってて、ね?」
葵は小さく頷いた。
その間に俺は夕飯の下準備。すぐにできる暖まるものがいいな。
テレビをつけると、ニュースがやっていた。天気予報は、これから三日間ほどの間台風がこの辺りに影響を及ぼすと言っている。そんな大きな台風が来ていること自体俺は知らなかった。
『尚、この台風は明後日の昼ごろが一番影響を受けますので気をつけてください』
ニュースキャスターは関心なさげに言っていた。
その直後にこの時間には有り得ない番組がやっていた。
ハイネの番組だった。
どうやら特番が組まれているようで、あの出来事はすぐに全国ネットに流れたみたいだ。よく知らない音楽評論家とかいう輩がぐだぐだ持論を述べている。
ハイネのあの表情を思い出す。
あの時の彼女の微笑み。
一体何に向けての笑みだったのだろう。
考えながら、下準備を済ませた。夕飯はシチュー。決定。
五分とかからなかったので急いで雨戸を閉める作業にとりかかる。
立地自体は悪くないので、周囲が冠水したりすることはないし、近くの川が氾濫するなんてことはない。一階部分の東向きと南向きの窓の雨戸を閉めた。二階はまた後でやろう。
そろそろ湯もたまったころだろうと思い風呂場に顔を出す。
「……さむいよ」
葵は素っ裸でしゃがんでいた。
「…そりゃ服脱いで待ってろとは言ったけど…ずっと待ってたの?」
葵は頷いた。
「ああ……ごめんな」
俺もすぐに服を脱いで、葵と一緒に湯船に浸かることにした。
しかし失敗。まだバスタブに半分ぐらいしか湯が張られていない。
浸かれば水位が上がるだろうと思い、先に入ることにした。
「……葵?」
曇りガラスのドアの向こう、動かないでいる葵を呼ぶ。
少しして入ってきた葵は、今更ながらにタオルを体に巻いている。
「……」
俺も今更ながらに恥ずかしくなってきた。
あれ、何でさっき裸だったのに気にならなかったんだろう。
口の中でぶつぶつ呟いていると、葵も湯船に入ってきた。
流石にタオルは巻いていない。
落ち着け、俺。
ハイネは結局どうなったのだろうか。
ぐるぐるとそれだけが頭の中で回っている。
葵の肩が震えているのが目について、何だかとても愛おしく感じられた。
抱き寄せて、頭をなでる。
葵の体がこんなに小さく感じられたのは初めてだった。
夕飯を済ませて、二人で手をつないで眠った。
部屋の隅においてあるコンポでハイネの歌う曲をかけながら。
中には、リリの歌っている曲もある。
それから数日後。
歌姫は歌うことを忘れた。