翌日の朝刊には「殺人鬼が造りだした、二十九番目の遺体」という見出しの記事があった。
俺は被害者の顔写真を見て背筋に悪寒を覚える。
九支枝優子。
昨日会ったばかりの彼女は、交わした約束を永遠に守れなくなってしまった。
唐突すぎて、俺には何が起きたのか理解し難かった。
なんとも言えない気持ちになる。
「おーはーよー」
背後から降ってくる声と覆いかぶさってくる何か。
「今日も朝から勉強家だねぇ…」
欠伸をしながら俺の頬に頬擦りをする葵。
「ん、おはよ。今朝は早いね」
何とか平静を繕い、精一杯、いつもの対応をする。
「…そう?」
葵は俺から離れて冷蔵庫を漁る。
「あ、朝飯なら俺が」
「いい。なんか君、変だから」
俺は固まる。繕ったのは無駄だったらしい。
「……」
昔からこういう時ばかり彼女に見抜かれる。
「あーあー、お姉ちゃんはそういう子に育てた覚えはありませんよーだ」
一緒に育ってきた覚えはあるが、育てられた覚えはない。とは思っていても言えない言葉だった。
「頭すっきりしたら、ちゅーしてあげないでもないけど」
「いや……そういうのを望んでるわけじゃ…」
一体何を考えているんだ朝っぱらから。
「え……?」
ああもうだめだこの姉。
「ちょっと散歩してくるよ」
返事も待たずに俺は家を出た。
部屋に残る弟の温もりだけを感じ取り、朝食の用意をする。
別に、いないからって、取り乱したりはしない。
少しも寂しいだなんて思わなかった。
でも。
求められたい。
全部だなんてワガママは言わないから。
少しだけで、いいから。
「あたし、どうしちゃったんだろう…」
あの子がいないだけで、気分が落ち着かない。
涙が出そうにもなる。
あたし、どうしちゃったんだろう。
とりあえず、朝ごはん食べなきゃ。
気晴らしにとテレビをつける。
特に何もやっていないけれども、このままじゃどうにもできない。
チャンネルを回してニュースにした。
昨夜の事件、例の新聞に出ている記事のことをやっている。
そういえば、被害者は弟の同級生だったか。
……何だか、嫉妬に近い感情がうまれそうになる。
それを抑えて、料理に没頭する。
何で。
「何であたしたちは姉弟に産まれちゃったんだろう」
自然と声が漏れて、指先に痛みを感じる。
「あっ…」
指先を包丁で切ってしまっていた。
ほんの少しだが、血がじわりじわりと滲んできている。
それは手の甲を這い、一筋の軌跡を残してまな板の上にぽつりと落ちた。
あたしをつくるこの身体を流れる赤い液体をじっと眺めていた。
今日は九月九日。
あたしは、ただただ眺めていた。
弟の座っていたソファを。
弟の読んでいた新聞を。
流れる血は、床にぽつりぽつりと落ちる。
たいした切り傷ではない。
ほんの少し、薄皮が切れたくらいである。
その指を、指先を咥えて。
朝食も何もほっぽり出して。
両親は、一週間ほど帰ってこないらしい。
最後の旅行になるかもしれないと言って、二人そろって仲良く出て行った。
あたしは弟の帰りを待つことにした。
ひとつのカギを見つけていた。
それだけに、神経が集中していた。
殺人鬼斎藤が、誰であるかということを、俺は気づいていた。
いや、理解したと言っても過言ではない。
斎原からもらった資料に目を通していて気づいたのは、殺人鬼の特徴がある人物と一致することだった。
それが真実かどうかは、斎藤に出会って直接確認しなければいけないだろう。
どう転んでも、リスクが大きくてとてもじゃないが耐えられないだろう。
殺人鬼が他の人間であることを祈るだけだ。
少し頭も整理できて、心に余裕ができた。
気がつけばもう昼飯の時間だ。
家に帰ると、ソファで姉がまるまって眠っていた。
枕にしているクッションに、微かに付着している赤い……これは血か?
よく見れば、床にもまな板にも少しだけ血の垂れた跡がある。
姉はすやすやと寝息をたてているが、指先に傷があった。
さしずめ包丁で怪我でもして、そのまま朝食をつくるのが面倒になったのだろうと勝手に解釈する。
姉を揺り起こすことにした。
「もしもーし、起きてー。起きてくださーい」
するとどうだろう、眠りが浅かったのかどうか、葵はすぐに声を上げてのっそりと起き上がった。
「姉ちゃん、朝飯あきらめたのか」
猫のように伸びをする葵に優しく声をかける。
「ん……おかえりぃ」
ぎゅうっと抱きつかれる。
「ちょ…」
「寂しかったんだよぉ……」
子猫のように甘える葵の髪をなで返す。
「いや、だって」
「だってとか言うの禁止……」
抱きつかれたまま、俺と葵は床に転がる。
「姉ちゃん…」
葵は俺の胸に顔をうずめたまま動かない。
「ん…いいにおい…」
俺は動けない。
昨日かまってやっただけじゃ足りなかったらしい。
「ねえ…よつかぁ」
呼ばれて応える。
「なに?」
「……このまま、ね…?」
上目遣いに甘い声。
逃れる術はなし。
そうして、九月九日は終わっていった。
翌日もまた、何ら変わることもなく終わりを迎えた。
殺人鬼に関するニュースが流れたのは、翌週の月曜だった。
世界は一変して、殺人鬼は消えていった。
俺の元に残ったのは、わだかまりと悔しさだけだった。
朝刊の一面から、誌上を全て乗っとる勢いで掲載されている記事。今や、殺人鬼斎藤の名を知らない奴はいないし、一部では信者が沸くほどの人気を得ているらしい。
もっとも、俺、四塚と、姉の葵には関係ないことだと思っていた。そう、関係ないのだと、思っていたのである。
鬼隠洞から帰った翌日(帰宅した当日は疲れ果てて眠ってしまっていた)の朝刊がそんな感じだったのを記憶している。
殺人鬼斎藤が今までに殺した人の数は、この三カ月で二十八人。三日に一人は殺されているらしい。二十九人目の被害者は誰になるのだろうか。
少なくとも、俺の知る限りじゃあいつにはそれをやる明確な理由はない。かと言って、やったことが帳消しになるわけでもない。何が目的でも、法律に触れた時点で犯罪になるこの世の中で。俺と優しすぎる殺人鬼は邂逅する。
「ふう」
どれだけ疲れていても、身体が反応してしまう。体力的にも、精神的にも悪いだろう。しかし、ある程度の時間さえあれば落ち着く。習慣はちょっとやそっとじゃ崩れないみたいだ。朝の早起きだけに関してはそれが言える。ので、遅刻をしたことは一度もない。
とりあえず、起き抜けに珈琲は胃に悪いので、朝はジンジャーエールと決めている。炭酸最高。その後、テレビをつけようとしてリモコンを探す。見当たらないのですぐに諦めてソファに寝そべった。
カーテンの隙間から朝日が射しこむ。気持ちがいい。後ひと月ほどで世界が崩壊するなんて、思えないくらいに。
鬼隠洞のことを振り返る。千鶴さんは「また来てくださいね」と言っていた。
きっと、いつかのことになるだろうけども。
携帯電話が鳴る。テーブルの上に放置したままの俺の携帯電話。
コールが止まない。
五回…。
六回…。
七回…。
そこでやっと鳴り止む。
俺は携帯電話を手にとり、かかってきた番号にかけ直す。
「やあ、久しぶりですね」
相手はすぐに出た。
「ああ、久しぶり。今日はどうした」
「いえ、特に大したことはないんですけどね。お茶でもいかがかなと」
俺は二つ返事でOKを出した。
それじゃ、一時間後に駅前で。
と言った後、どちらともなく電話を切る。
電話の主は高校時代の同級生、斎原だった。
一年の入学式からの友人で、成績は優秀、顔はいいしその物当たりのよさそうな外見から大多数の人に好かれる存在だった。
ただ一つ難点があるとすれば、優しすぎるが故に自らのすることに対して悉く損をする立ち回りをしていることだ。
駅前と言ったらコメダしかなかった。ひょっとしたらと思って駅前商店街の店を覗いてはみたが、どこにもいなかった。
大体いつもコメダだから、心配する要素はないのだが。
入って見回すと、手を上げた奴がいた。そこへ歩みよっていけば見慣れた顔が二つ。
「やあ、時間通りだね相変わらず、気持ちがいい」
「やあ、時間通りだね相変わらず、気持ちわるい」
二人が同時に喋ってステレオのように聞こえた。後者は無視することにしようといつも懸命に努めるのだが俺の脳はそんな芸当を披露してはくれない。
「何だよ…珍しく妹御まで連れて。デートか何かか?」
俺が言うと、向かって左に座っている兄斎原冬夜が言った。
「いやあ、玄関出たら着いてきたんだ」
向かって右側、妹の斎原和美が言った。
「お兄ちゃん、ついてないと心配で」
なるほど、いつもと一緒か。優しすぎて帰りの遅くなる兄を心配してのことだ、妹御も早く兄離れをしないといけないと思う。……何だか似たような感覚を味わっている気がするな。
とはいえ、この変わりようと言ったら何だろう。兄に対しては優しいのだが、開口一番に気持ちわるいと言われた気がしたが。
二人は一卵性の双子で、背丈も体型も大体同じだった。髪型が違うだけで、顔も同じ。声の高さも似ていて、両側に二人をおいて話を聞くとステレオ感覚が味わえる。
お待たせしました、とウェイトレスが飲み物を運んできた。
何故か俺の分まである。頼んでないのに。これもよくあることだ。斎原と待ち合わせすると、大体が頼んでないのに運ばれてくる。俺の好みを把握している奴がその優しさで頼んでおいてくれるのだ。
多分、斎原が一番俺のことを知っているし、俺が一番斎原のことを知っているのだ。
「ところで今日はどうした」
俺にはオレンジジュースが用意されていた。相変わらずの味に舌鼓をうつ。
「どうしたも何も、こないだの定例会来なかったから資料をね」
和美がカバンから資料を出して俺に渡す。
「また分厚い…」
俺は呆れた。厚さで言えば週刊の漫画雑誌ぐらいはある。
「中身は、知ってると思うけど、例の殺人鬼斎藤について書かれている。しかも事細かにだよ」
声のトーンを落とさずに斎原は続けた。
「あの殺人鬼について、情報なんか少なすぎて何もできやしないと思っていたのにだよ。こんなにも集められるなんて素晴らしいと思わないか」
「まあ、確かにな」
ぱらぱらと資料をめくる。何だこれ、両面刷りじゃないか。つくったやつ誰だよ。
「今読まなくともいい。帰ってからゆっくり読んでほしいんだ」
もっとも、君の姉さんが邪魔をしなければだけど。
そう言って冬夜はカップを手にとり、中身を一気に飲み干す。
「……なあ、この殺人鬼について、どう思う?」
カップを持ったまま、斎原は言う。
「どう、って…」
俺は思う。大抵、斎原が望む答えなんてのは返せない。
「別に、何とも……人を殺すやつのことなんか考えたくないね」
言って肩を竦める。
「だろうね、君らしい答えだ」
にっこりと笑って斎原はカップを置いた。
「それじゃ、この後用事があるから今日はこれで」
席を立つ斎原。妹御の和美も同様に。
「ああ、支払いは済ませておきますから」
「ん、ありがとう」
俺は礼を言って、斎原は先を歩いていった。資料に目をやる。
「……て」
ふと聞こえたか細い声に顔をあげる。
「どう、した」
まだそこに和美がいた。変に意識してしまい声が上擦った。
心なしか、戸惑いと不安とが入り混じったような歪な表情をしていた。
「助けて、あげて」
和美はそれだけを言って走り去っていった。
「……助ける?」
その言葉の意味が俺には理解できなかった。
帰り道、同級生の九支枝優子と出会った。すっかり見違えてしまったが、これも世界の流れなのだろうか。
高校を出てすぐに結婚をした彼女は、今では二児の母親らしい。その二児というのも双子で、ベビーカーの中で二人並んで眠っていた。可愛らしい赤ん坊だ。
旦那は事故で亡くしたとかいう話を聞かされて俺は何と言っていいのかわからなくなった。でも、彼女はこの子たちがいるから幸せだと言って笑った。今は両親と暮らしているそうだ。世界崩壊については信じていないらしく、両親と子供、自分の五人で過ごしている日々に満足しているとか。俺は九支枝とは話したいことがいくつかあったので、またいつか連絡するよと言って別れた。
まだまだ暑い日々が続きそうだ。もう後少しで世界は崩壊する。それを信じていない訳じゃない。臆病な俺には、この世界を放って出ていけるような心はない。だのに、世界は否応なしに崩壊の一途を辿る。連日、殺人鬼の記事と肩を寄せ合っている世界崩壊の考察記事に、俺は見向きもしない。一度、各紙の記事を読み比べたがどれもパッとしなかったし、まともに読めそうなものもなかった。気にはなるのだがどうにも、読む気にはからないものばかりだった。早く帰って殺人鬼の資料でも読むことにしよう。ふと携帯の電源を切っていたことを思い出した。電源を入れると着信とメールが一件ずつ。どちらも葵からだった。よかった、何十件とかじゃなくて。ヤンデレは嫌だなと思いながら足は帰路に向かっていた。
その日の夜、俺は資料を読みながら葵と戯れていた。
そんな時、殺人鬼は二十九人目の被害者を産み出した。
被害者の名は九支枝優子。
翌日の新聞にはまた大きく記事が書かれていた。
皮肉なことに世界は崩壊の一途を着々と辿りつつある。
「 殺 人 鬼 篇 」 開始。
「千鶴さんは、笑ってたけど」
俺より先を歩く姉が言った。
「うん、やっぱり、寂しかったんだろうね」
俺はそれを右から左に聞き流していた。
千鶴さんの民宿を出て、俺達は鬼隠洞を目指していた。
「……村にあの話が広まって、誰も鬼隠洞に近付かなくなって」
姉は俺の方に顔だけを向けて言う。
「更に柵までされちゃって……可哀想」
「可哀想、ね。俺はそうは思わないよ」
姉の言葉に切り込むように口を開く。
「何でよ?」
怪訝そうな表情に、珍しい顔をするもんだと俺は感心した。
「だって、いくら千鶴さんのお母さんが中にいるからって、鬼がいる洞窟を放っておくか? ましてや人に恨まれた人間を助けるような心境になれると思う?」
「いや、でもそれは……」
姉はしどろもどろとして、口の中でもごもご言っている。
「だから余計に、危ないものには蓋をするために柵をしたんだ」
「危ない……何で誰も、理解してあげようって気にならなかったんだろう」
「昔の人間、こんな山あいの集落っていう閉鎖的な空間で、達観した人間なんかいなかったって証拠だろ」
そうこう話ているうちに、二人は鬼隠洞に着いた。
「改めて見ると、禍々しいな」
朝から蝉の鳴く声が響いている。太陽の暑さもハンパない。柵はよく見ればボロボロで今にも壊れそうだ。
「この奥に、行くのよ、ね」
姉は昨日に比べて大分落ち着いていた。
怖がる様子もないのが少しだけ残念だが。
辺りを見回して手頃な大きさの石を探す。
「……鬼ってのは本来、形のないものなんだよ。厄災とか、邪悪なものとか……昔はね、そういった目に見えないもののことの総称を鬼としたんだよ」
探しながら俺は言った。
「ただ、人にできないことができる。人でなしなんだよ」
「……どういう意味?」
「人でない、人で、なし、人でなし、ってこと」
姉は頭上に電球でも出すかのような顔で叫ぶ。
「すごい!あたしぜんっぜんわかんなかったのに!」
さすがあたしの弟、と頭を撫でられる。
嫌な気はしないとは言ったが、素の時にやられると照れる。
「こんなんでいいかな」
いい感じの石を見つけたのでそれにした。
「がんばって」
姉は応援という名の見ているだけの行為に勤しんだ。
「よっ……」
両手で石を持ち上げて後ろに振りかぶる。
「せいっ!」
振り下ろして柵を一つずつ破壊することにしたのだが、意外に骨の折れる作業だった。
柵はどうやら腐りきっていたらしく、簡単に崩れてくれた。人が入り込めるぐらいの形にはなった。
「でも、これ怒られないかな……?」
姉が今更疑問を投げかけてきた。
いやいや、あなたがんばってって応援してたじゃないか。
「うん、そうだけど、さ」
まだ何か言いたそうな姉の腕を引いて、俺は鬼隠洞に足を踏み入れた。
鬼隠洞の奥深く、底といってもいい場所にたどり着くには時間がかかり、二人はヘトヘトになっていた。
「……」
「……」
そのせいか、いつの間にか無言になる二人。
外は夏の日差しで暑かったが、中は逆にひんやりとしていた。
「……っ」
姉は少しだけ肩を震わせている。
「姉ちゃん、寒いのか」
「大丈夫、大丈夫」
そう言って首を振るが明らかに寒そうである。
「少し、休もうか」
何も言わずに姉を抱き締める。
「ちょっ……こんなとこで、なにする気……!?」
「や、しないよ。ひっついてた方が暖かいかと思ってさ」
「……何だ、つまんないの。あたし今からあんなことやこんなことを弟にされてしまうんじゃないかって思ったのに……」
「まあ察してやれよ、最近は甘々な方には走るけど、そっから先の表現はないだろ? つまりそういうことなんだよ」
「ふーん……よくわかんないけど、まあいいわ」
などとしていた時、奥の方から聞こえてきた不気味な、獣の出すような叫び。
それを聞き流したい衝動にも駆られはしたが、今は更に奥に足を進めなければならない。あれ、これっていいのか。
「今の、なに……?」
「さあ……何にしろ、行かなきゃいけない方向だし……」
深い深いその先に待つのは一体。
更に歩みを進めると、洞窟とは思えない香りが漂ってきた。
「ん、これって……海の匂い?」
先にそれに気付いたのは姉だった。
「本当だ、何でこんなところで」
次の一歩を踏み出したら、危うく転びそうになった。
「大丈夫?」
何とか持ちこたえて、踏みとどまった。
「なんか、踏んだ……」
灯りがないからなんとも言えないが、どうやらそれは海藻のようであった。
「……ひょっとしたら、反対側の海と繋がってんじゃないか?」
「海?そういえばあったね……何だか納得」
「まあ、わかんないけどね」
進めるところまで行くと、道は二手に分かれていた。
「どっちかが、海に繋がってるんだろうけど……」
耳を澄ませる、鼻を利かせる。
それにより、ある程度の情報は得られた。
「多分こっちだ」
俺は姉の手を引き歩き出した。
「本当にこっち?」
「多分」
行き当たりばったりでもいいかと思っていた。
間違えたらまた来た道を戻ればいい。
たどり着いたのは、そこそこ広めの空洞だった。相変わらずの寒さではあるが、慣れてしまうとそうでもない。
「広いね……」
姉のつぶやきが木霊となる。
「光が射すみたいだ……」
空洞の天にはぽっかりと大穴が空いていた。
よくよく見回せば、誰かが住んでいた跡があった。
「これか……」
姉はその辺を物色している。俺はと言えば、まあ、姉と同じようなことをしていた。
「ねえ、ちょっと来てー」
呼ばれて振り向く。何か見つけたのだろうか。
「これ、ってさ」
姉が指指していたのは、紛れもなく。
「うん、これはきっと」
少しだけ小高いとこに盛られた土と、そこにのせられている小さな石。
同じものが二つ、並んでいた。
置かれている枯れた百合の花が、それが何かを物語っていた。
「……」
姉は無言で手を合わせ、それらを拝む。俺もそれにならって拝む。
「……いこ」
俺が拝んでいるにも関わらず、姉はもと来た道を戻りだした。
「ちょ、姉ちゃんっ」
すぐに追いついて、後をついて歩く。
心なしか姉の肩が震えているように見えた。
俺は今一度振り返って、空洞に別れを告げた。その時耳についたのは、あの奇妙な音。
何だ、風だったのか。
天に空いた穴から入り込む風の音だったらしい。
「おいてくよ」
寂しそうな姉の声に引かれるように、俺は走った。
「姉ちゃん、ちょっと」
「……なによ」
「暑いから、ちょっと離れてよ」
帰りの電車の中、俺たちは今までにないぐらい…とは言い難いが、結構なべたつき具合で席についていた。
「いや」
鬼隠洞を出た後、一度千鶴さんの民宿に戻った。思い起こせば、昨日の夜。千鶴さんは全てを語らなかった。自分が鬼と人の子であり、その両親は鬼隠洞にいること、よければ会いに行ってみるといいと言って、話は終わった。
民宿の前の掃除をしていた千鶴さんは俺たちの姿を見つけると、ゆっくりとお辞儀をした。
悲しそうな顔をした千鶴さんは言った。
「おりましたでしょう、両親」
その質問に頷くべきかどうなのか、俺には判断できなかった。
ただ、無言で応じるしかなかったのだ。
立ち話もなんだからと、千鶴さんは中へと案内してくれた。
「まだ私が幼かったころ、父と呼んだあの方は亡くなりました」
お茶を出されて、土間で話を聞くことになった。
「あの方は、見た目ほどみすぼらしいものはございませんでしたが、もとは名家の武士だったと聞かされました」
千鶴さんはずっと俯いたままだ。
「私と母に優しくしてくれて、あの閉鎖された空間にいながらも私たち家族は幸せに暮らしておりました。今思えば、あの方が人でないことを全く気にしなかった私はおかしかったのではないかと思えて仕方がありません」
姉は話を聞いているのかいないのか視線を泳がせている。
「もとは人間なのか、それとも鬼であったのか……真実は今となってはわかりません。ですが、幸せに、本当に幸せに暮らしていたのです」
「あの……いくつか聞きたいことが」
「はい、なんなりと」
「まず、あなたのその……胸元の、入れ墨は……」
言い終わったところで脇腹に痛みが。つねられている。痛い痛い、段々痛くなってきた。ちょ、まずい、本当に痛い。声にならない呻きをあげていると、千鶴さんがゆっくりと口を開く。
「これは、あの方の故郷の呪いだそうで……詳しいことはわかりませんが、病弱な私の体を守るものだとしか」
「そ、うですか…」
理由がわかったのはよかった。しかし痛い。よかった、やのつく職業の方じゃなくて。
「あの、昨日出会った時、カゴに入っていたのは」
「ああ、あれはつくりものです。私、人を驚かすのが好きでして」
拍子抜けだ。
何だかもっとびっくりするようなのを期待していたのに。
姉は俺の脇腹をつねるのをやめて、お茶をすすっていた。
「あの…本当に、あなたは」
「それは秘密ということにしておきましょうよ」
俺の台詞に姉が口を挟んだ。
「ね、千鶴さん」
「……ふふ」
千鶴さんは少しだけ微笑んでくれた。
「そうね、女に秘密はつきものですものね」
夏の、夕暮れのことだった。
「お腹すいたー」
まるで子どもみたいだなと俺は思う。
「ね、夕飯一緒につくらない?」
「いいよ。ただし、好き嫌いなしね」
露骨に嫌そうな顔をする姉を見て、不思議と笑みがこぼれる。
千鶴さんは全てを語ってくれたわけじゃなかった。
奥方、つまり母親のことは言わなかった。でもあの鬼隠洞の奥、片方だけに供えられた花が違った。今思えば、千鶴さんの民宿の玄関に飾ってあった花も同じ花であった。
多分、母親の方の墓なのだと思う。
何も言わなかっただけで、愛し愛されていたのだと。
「さ、駅着いたよ、帰ろっ」
電車は地元の駅に着いたらしい。人々が世界崩壊を知らされた中、公共機関の一部はまだ運行しているし、仕事をしている人々もいる。
あの話を信じているのは、本当に一部の平和惚けしている輩のみのようだった。
だけど。
どちらかと言われたら何とも言い返せない。
信じているのか信じていないのか、なんて。
少なくとも、まだ俺たちには時間があるから。
抗うのではなく、純粋に世界を楽しむために。
見えざるものを見るために。
歩みを進めていく。
更なる一歩のために。
俺と姉が、幸せに暮らせる世界を築くために。
「鬼隠洞」 終
昔から姉ちゃんには敵わなかった。
物心つく前から、そうだったのだと両親に教えられた。
何をするにも、姉ちゃんの方が優れていた。
俺もできなかったわけじゃない。
勝負事だって大きく負けるのではなく、僅差で負けていた。
いつもだった。
でも、姉ちゃんは俺より何かができるからといってそれをおくびにもださずに平然としていた。
ひとつが終わったら、すぐに次の目標を持っていた。
それゆえに、俺は悔しくて。
勝った負けたの勝負だと、一人で思い込んでいた。
だから、姉ちゃんのことでいい思いではない。少なくとも、俺の心が変わるまでは。
ひとえに言えば、姉ちゃんのことが嫌いだった。
それが日常になっていたある日、通っていたスイミングスクールで、姉ちゃんを打ち負かした。
僅差だったけれど、俺は勝った。
今まで勝つことのできなかった姉ちゃんに。
俺はそれを心の底から嬉しく思って、両親に自慢した。
両親は微笑んではくれたが、何も言わなかった。
でも俺は何故、何も言われないのかなんて気にしなくて。
姉ちゃんに、言ったんだ。
「俺、姉ちゃんに勝ったよ!姉ちゃんの記録より、早く泳げたんだ!」
てっきり、悔しがると思ってた。
でもちがった。
姉ちゃんは、それを聞いても、平然として、でも微笑んで言った。
「そう。よかったね、おめでとう」
ただ、それだけだった。
俺は、うん、そこで何で姉ちゃんが俺を褒めてくれたのか理解なんてできなかった。
俺の中で渦巻いていた、嫉妬とか喜びとかは一瞬にして消えてった。
残ったのは、うつろな気分だけ。
それから、俺は姉ちゃんに何かで勝とうとか、そういうことを考えるのはやめてしまった。
姉ちゃんは何で、負けたのに笑ってるんだろう。
それだけが、ずっと気になってしまっていた。
年齢を重ねるに連れて、姉ちゃんとの距離は開いていった。
それに連れてなんとなく、姉ちゃんが笑ってくれた意味を理解することができてきた。
いつしか俺も、姉ちゃんと同じことを思うようになっていたのかもしれない。
ある日、姉ちゃんが泣きながら帰ってきた。
憧れの先輩に告白したら、即答で断られたとか。
泣いている姉ちゃんを見て、本気だったんだなってのは一発でわかった。
同時に、胸の奥が痛んだ。
泣いている姉ちゃんの姿なんか見たくない。
それがきっかけになって、俺は姉ちゃんを守らなくちゃって思った。
姉ちゃんが高校二年、俺が中学一年のころのことだった。
姉ちゃんが高校を卒業するまで、俺は姉ちゃんのことを一番に考えてた。
何があっても守るつもりでいた。
シスコンだと言われても気にならなかった。
守らなくちゃいけない相手がいるからと思えるだけで、随分と強くなれた気がしたから。
姉ちゃんが大学に進学して一人暮らしを始めるって聞いた時は度肝を抜かれた。
寂しいとは思わなかった。
せめて、悪い虫がつかないようにと、心の底から願っていた。
五年。
守らなくちゃって、決めてから五年。
姉ちゃんを嫌いだという気持ちは、いつの間にか消え失せていた。
変わりに、好きだという感情が産まれた。
姉ちゃんと一緒なら、何でもできる。
そういう気分でいられた。
姉弟としてではなく、恋人として見るつもりでいた。
そして、世界崩壊のお知らせがあったあの日、姉ちゃんが家に戻ってきて言った言葉。
「弟に、会いに来たんだ」
嬉しくて、発狂するかと思った。
でも、露骨には出せなかった。
実の姉に恋愛感情を抱くなんて可笑しい。
そう思っていたからだ。
もやもやした感情を、いつか言おうと決めていた。
千鶴さんの民宿から帰ってきて三週間がたった。
今日は、ニュースで言っていた世界崩壊の日。
あの後、俺たちは神様と閻魔って名乗る二人に出会った。
他にも、変なやつらばっかに会った。
冷酷非道な、でも心の優しい殺人鬼、斎藤。
歌うことを忘れた、少し天然気味の歌姫ハイネ。
宝石商を名乗る男神崎と、それに追従する少女燐。
飄々とした青年と中世的な少女、圭と遼。
日夜努力を続ける科学者とその細君である園山夫妻。
落下しつづける少女マリッカとそれを追う復讐者アラカンサス。
みんな、変な奴だったけどいいやつらだった。
会ったのは一度きり。
連絡先の交換とか、そういうのは一切してないけど。
きっと、奴らなら生き延びるだろうなと、俺は思う。
俺は、家に帰ってきた。
姉ちゃんも一緒だ。
最後の瞬間まで、一緒にいようと。
起きて、世界の崩壊するさまを見届けようって決めた。
俺に寄りかかるかたちで、姉ちゃんは座ってる。
外は、まだ暗い。
ニュースもやらなくなった。他のテレビだってやってない。
もう地球に残っているのは、俺と姉ちゃんだけ。
そう思っていたら、他の誰かが残っていたらしく、ラジオからは音楽が流れ続けていた。
ネット上では、地球に残っている人たちのつくったコミュニティもあるらしい。
本当に、一握りだけ、残っているみたいだ。
両親も、チケットを手に入れることはできていたみたいだ。
でも結局、俺と姉ちゃんが地球に残るって言ったら俺たちを置いていったら、親としての面子がどうのこうのとか言ってた。
それがおかしくて、俺と姉ちゃんは笑った。
最後だから、って両親は俺と姉ちゃんに言ってなかったことを教えてくれた。
本当は、俺たち姉弟は血が繋がってないってこと。
両親はどちらも再婚で、俺は母さんの連れ子、姉ちゃんは父さんの連れ子だったってこと。
ほかにも色々聞いたけど、よく覚えていない。
手を繋いで、ゆっくりと上にあげる。
「……どした?」
姉ちゃんが眠たそうな声で言う。
「まだ、信じられなくてさ」
「うん、あたしもだよ」
どこか寂しそうで、でも少しだけ嬉しそうな声色。
「でも、嬉しい。あたしは少なくとも嬉しいよ」
俺の顔を見上げて姉は言う。
「これで、今まで言えなかったことが言えるんだから」
優しい笑い方。
姉ちゃんの、一番綺麗な、自然な笑顔。
「言いたかったこと?」
ふふ、と笑っている。
「俺も、あるよ、言いたかったこと」
「……知ってるよ」
静寂の中で、二人の声だけが響いてる。
窓は、カーテンを閉めないで外の暗さだけを俺たちの目に焼き付ける。
「そっか……でも、きちんと言うよ」
「うん、言って?」
日の出まであと少し。
両親はもう寝ているだろう。
千鶴さんも、斎藤も。
神様も閻魔も。
ハイネも神埼も燐も。
圭も遼も、マリッカもアラカンサスも。
「姉ちゃん、俺」
愛するものを、愛しいものを。
「姉ちゃんのこと」
守るために、この星に。
「愛してるよ」
「うん、あたしもだよ」
世界が崩壊する=世界が終わる、ではない。
これからの世界を、俺たちがつくるために。
その瞬間、日はのぼった。
世界崩壊のお知らせ。
「実は私――」
次の言葉が紡がれるまで、どれほどの時間を要しただろう。
とても長く感じたように思えるし、一瞬だったのかもしれない。
俺はその続きを待った。
「その前に…鬼隠洞のお話をご存知でしょうか」
拍子抜けした。
「え、まあ、その鬼隠洞を見に…来たって夕食の時に…」
「あの話に出てくる、奥方がその後どうなったか聞きとうありませんか」
「奥方…大叔母ではなく?」
「ええ…あの話は、曲がり曲がって今の形になりました。」
角を生やした人影、千鶴さんは廊下に膝をついて話し始めた。
「私が今からお話しいたしますのは、紛れもない真実。時は100年ほど昔、この村を大地主の櫻田家が取り仕切っていた時代…櫻田家は、召使いとして奉公人を多く雇っておりました。旦那様はとてもお優しいお方で、村の皆から好かれておりまして、奉公人からの信頼も熱い旦那様でした」
淡々と語る口調に、息をのむ。
「奥方はと言えば、容姿は端麗、器量もよし。しかし性格は傲慢で鬼畜。正に鬼そのもの。何故旦那様はそんな女を嫁にしたのかと、噂は流れに流れておりました。誰を相手にしても、その態度は変わらぬどころか日に日に悪化を遂げるばかり。旦那様も見て見ぬふりをしていたそうです。そんな奥方にも、唯一可愛がる対象がありました。一人娘がいたのです。誰に対しても残虐非道な態度をとるくせに、娘と旦那には気を許していたそうな。その日も奉公人を痛めつけて楽しんでいたとか。一人の丁稚が夕刻を過ぎたあたりで駆け込んできまして、何事かと旦那様と奥方が迎えると丁稚は言いました」
どこからか、虫の羽音が聞こえる。
“お嬢さんが川で足を滑らせて溺れた!流されちまって姿が見当たらない”
「それを聞いた旦那様、奉公人を皆連れて、我先にと川へと駆ける。それを追って奥方も駆ける。荒れ地の山道を駆ける駆ける。奥方が着くころには、奉公人と旦那様、川に入って娘を探す。村人たちもやってきて、娘の名を呼びながら探し続けるも、時は既に夜。松明を燃やしながら探すが、一向に見当たらない。その日はそこで、きりをつけた。それじゃおさまりのつかない奥方、泣いて喚いて奉公殴る蹴る。旦那様が止めに入るも聞く由もない。旦那様は丁稚に後を任せ、奥方を連れて屋敷に戻った。」
息もつかずに話は紡がれる。
「明くる日もその又明くる日も娘を探す日々は続いた。そして、七日目の晩にそれは起きました。」
“娘が見つかった”
「その知らせを受けた旦那様は、少数の奉公人を連れて娘を引き取りに行きました。奥方は憔悴しきっており、とても歩ける様子もなかったので留守を任されました。旦那様が向かった先は、川を下った先、港に近い村でした。そこへ行くのに夜通し歩いても二日はかかる。往復で四日。奥方は待ちました。勿論、憔悴しているにも関わらず、奉公人を痛めつけるのは忘れておらなんだ。奥方が待ち続けて、やっと旦那様が帰ってきた。やっと娘と再会できる。食事も摂らず、眠ることもできなかった奥方は、力の出ない体を起こして旦那様に縋りました」
“あの子は、私とあなたの可愛いあの子はいずこに”
「その声に張りはなく、掠れた涙声でした。旦那様は、暗い表情で首を微かに振りました。旦那様の後ろに控えていたのは奉公人たちでした。彼らは何人か何かを持ち上げている様子でした。一つの大きな匣…大きさとしては、子供が一人入るぐらいの大きさでしょうか…」
千鶴さんの声が、少し掠れて聞こえるような気がする。ふと、右後方に人の気配を感じて振り向く。
浴衣姿の姉が、首を俺の肩に預ける形で寄りかかっていた。きっと姉も湯浴みをしてきたのだろう、微かに姉の体は火照っている。空いていた右手をとられ、指だけを握られた。
「奥方はそれが何かわからなかった。いえ、理解できなかった…しようとしなかったのかもしれません。奉公人たちがそれを床に置き、蓋を開けた。旦那様の肩を借りて奥方はゆっくりゆっくりとその匣に近付いた」
少しだけ、声が荒げられた。
「開けられた匣、異臭が漂う。覗きこんだ瞬間、奥方は絶叫した。屋敷中に響くぐらいの声量で、奥方は娘の名を叫んだのです。其処に入っていたのは見るも無惨なほどに変わり果てた娘の姿!衣服は破れ、所々覗く肌には傷跡だらけ!川を下っていく中で、石にぶつかり魚に咬まれた痕!」
姉の体がビクンと震え、指を握る力が強くなる。
「旦那様が港の村に着いた時、娘は既に事切れていたという。それはそうだ、川は流れが緩いとこもあれば、滝壺だってある。この辺じゃ熊も出るし、下っていきゃあネズミだっている。獣畜生にかじられなかっただけ、マシなんですよ。」
梟の鳴く声が、遠くに聞こえる。
「その後の奥方といったら、意気消沈しておとなしくなっちまった。旦那様も、ご病気を患い、医者にかかるようになった。そこを見かねた奉公人。いくら今まで虐げられてきたとはいえ、娘を亡くした奥方を、見るには堪えないって外へと連れ出した。旦那様は体調も回復し、出張のお仕事へと向かっており屋敷にはおらなんだ。奉公人たちは、奥方を励まそうと精を尽くしたが、一向に奥方の気力が取り戻される気配はなし。さて、そこで一人が閃いた」
“ひょっとしたらこれで奥方も以前のように…”
「他の奉公人に話をし、向かった先は鬼隠洞。その時代より更に昔から、その洞窟の奥には鬼が潜むと伝えられる。だがそれでも、奥方は気を戻されぬ。いっそのこと洞窟に入ってしまおうと一人が言い出した。鬼に出会えばさすがの奥方も元に戻るだろうと。誰もそれを止めることはしなかった。入り口から大分遠くまで来て、一人がおかしなことに気づいた。足音が一つ多く聞こえるという。試しに数えてみようと、一人が勘定をしはじめた」
“ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう…”
「奥方をいれて五人でこの洞窟に入ってきたのに、数が合わない、一人多い。ゾッとした奉公人、六つ目の足音の主に恐る恐る声をかけた」
“…ああ、美味そうなニンゲンだ”
「返ってきた言葉に度肝を抜かれて、奉公人たちは一目散に逃げ出した。まだ体の弱っている奥方を残して――」
そこで話は一旦途切れた。
何て言えば、いいのだろうか。
ただただ震える姉を傍らに。
俺は何て。
「…ここまでが、この村に住んでいた村人が知る話の流れです」
夕食の時に聞いた優しい千鶴さんの声だった。
「ただ、この話には続きがありましてな…これは、村人も知らない話でして」
千鶴さんはまた語りはじめた。
「その洞窟に残された奥方は、声をあげたものに対して、恐怖も何も感じずに、返したそうな」
“…私は、食べられたって構やしない。死んだあの子に会えるなら、さっさと殺しておくれ”
「声の主は、ほうと一息あげると奥方を食うことはせずに、洞窟の奥に奥に連れていったそうな。そうして、逃げ出した奉公人の話から、今皆が知る鬼隠洞の話になりましたのよ」
そんな重たい話だとは知らなかった。
遊び気分で鬼隠洞を見にきたのが、恥ずかしく思えてきた。
「その後は、奥方は声の主、まあそちらが正真正銘の鬼だったのですが…」
コホンと咳払いして、千鶴さんは続けた。
「奥方は鬼と共に苦楽を背負い、交わいを行い、奥方は一人の子供を産みました。鬼と人の子を…」
鬼が実在して、人との子をつくった?俺にはそれが理解できなかった。
今まで黙りこくっていた姉が口を開いた。
「あの…何故、千鶴さんがその話を知っているのですか?」
「何故、ですか。それは」
襖を全てあけて、千鶴さんと正面から向
かい合った。
物悲しそうに笑み、彼女は言った。
「私が、その子供。鬼と人の間に産まれた子供だからです」