「実は私――」
次の言葉が紡がれるまで、どれほどの時間を要しただろう。
とても長く感じたように思えるし、一瞬だったのかもしれない。
俺はその続きを待った。
「その前に…鬼隠洞のお話をご存知でしょうか」
拍子抜けした。
「え、まあ、その鬼隠洞を見に…来たって夕食の時に…」
「あの話に出てくる、奥方がその後どうなったか聞きとうありませんか」
「奥方…大叔母ではなく?」
「ええ…あの話は、曲がり曲がって今の形になりました。」
角を生やした人影、千鶴さんは廊下に膝をついて話し始めた。
「私が今からお話しいたしますのは、紛れもない真実。時は100年ほど昔、この村を大地主の櫻田家が取り仕切っていた時代…櫻田家は、召使いとして奉公人を多く雇っておりました。旦那様はとてもお優しいお方で、村の皆から好かれておりまして、奉公人からの信頼も熱い旦那様でした」
淡々と語る口調に、息をのむ。
「奥方はと言えば、容姿は端麗、器量もよし。しかし性格は傲慢で鬼畜。正に鬼そのもの。何故旦那様はそんな女を嫁にしたのかと、噂は流れに流れておりました。誰を相手にしても、その態度は変わらぬどころか日に日に悪化を遂げるばかり。旦那様も見て見ぬふりをしていたそうです。そんな奥方にも、唯一可愛がる対象がありました。一人娘がいたのです。誰に対しても残虐非道な態度をとるくせに、娘と旦那には気を許していたそうな。その日も奉公人を痛めつけて楽しんでいたとか。一人の丁稚が夕刻を過ぎたあたりで駆け込んできまして、何事かと旦那様と奥方が迎えると丁稚は言いました」
どこからか、虫の羽音が聞こえる。
“お嬢さんが川で足を滑らせて溺れた!流されちまって姿が見当たらない”
「それを聞いた旦那様、奉公人を皆連れて、我先にと川へと駆ける。それを追って奥方も駆ける。荒れ地の山道を駆ける駆ける。奥方が着くころには、奉公人と旦那様、川に入って娘を探す。村人たちもやってきて、娘の名を呼びながら探し続けるも、時は既に夜。松明を燃やしながら探すが、一向に見当たらない。その日はそこで、きりをつけた。それじゃおさまりのつかない奥方、泣いて喚いて奉公殴る蹴る。旦那様が止めに入るも聞く由もない。旦那様は丁稚に後を任せ、奥方を連れて屋敷に戻った。」
息もつかずに話は紡がれる。
「明くる日もその又明くる日も娘を探す日々は続いた。そして、七日目の晩にそれは起きました。」
“娘が見つかった”
「その知らせを受けた旦那様は、少数の奉公人を連れて娘を引き取りに行きました。奥方は憔悴しきっており、とても歩ける様子もなかったので留守を任されました。旦那様が向かった先は、川を下った先、港に近い村でした。そこへ行くのに夜通し歩いても二日はかかる。往復で四日。奥方は待ちました。勿論、憔悴しているにも関わらず、奉公人を痛めつけるのは忘れておらなんだ。奥方が待ち続けて、やっと旦那様が帰ってきた。やっと娘と再会できる。食事も摂らず、眠ることもできなかった奥方は、力の出ない体を起こして旦那様に縋りました」
“あの子は、私とあなたの可愛いあの子はいずこに”
「その声に張りはなく、掠れた涙声でした。旦那様は、暗い表情で首を微かに振りました。旦那様の後ろに控えていたのは奉公人たちでした。彼らは何人か何かを持ち上げている様子でした。一つの大きな匣…大きさとしては、子供が一人入るぐらいの大きさでしょうか…」
千鶴さんの声が、少し掠れて聞こえるような気がする。ふと、右後方に人の気配を感じて振り向く。
浴衣姿の姉が、首を俺の肩に預ける形で寄りかかっていた。きっと姉も湯浴みをしてきたのだろう、微かに姉の体は火照っている。空いていた右手をとられ、指だけを握られた。
「奥方はそれが何かわからなかった。いえ、理解できなかった…しようとしなかったのかもしれません。奉公人たちがそれを床に置き、蓋を開けた。旦那様の肩を借りて奥方はゆっくりゆっくりとその匣に近付いた」
少しだけ、声が荒げられた。
「開けられた匣、異臭が漂う。覗きこんだ瞬間、奥方は絶叫した。屋敷中に響くぐらいの声量で、奥方は娘の名を叫んだのです。其処に入っていたのは見るも無惨なほどに変わり果てた娘の姿!衣服は破れ、所々覗く肌には傷跡だらけ!川を下っていく中で、石にぶつかり魚に咬まれた痕!」
姉の体がビクンと震え、指を握る力が強くなる。
「旦那様が港の村に着いた時、娘は既に事切れていたという。それはそうだ、川は流れが緩いとこもあれば、滝壺だってある。この辺じゃ熊も出るし、下っていきゃあネズミだっている。獣畜生にかじられなかっただけ、マシなんですよ。」
梟の鳴く声が、遠くに聞こえる。
「その後の奥方といったら、意気消沈しておとなしくなっちまった。旦那様も、ご病気を患い、医者にかかるようになった。そこを見かねた奉公人。いくら今まで虐げられてきたとはいえ、娘を亡くした奥方を、見るには堪えないって外へと連れ出した。旦那様は体調も回復し、出張のお仕事へと向かっており屋敷にはおらなんだ。奉公人たちは、奥方を励まそうと精を尽くしたが、一向に奥方の気力が取り戻される気配はなし。さて、そこで一人が閃いた」
“ひょっとしたらこれで奥方も以前のように…”
「他の奉公人に話をし、向かった先は鬼隠洞。その時代より更に昔から、その洞窟の奥には鬼が潜むと伝えられる。だがそれでも、奥方は気を戻されぬ。いっそのこと洞窟に入ってしまおうと一人が言い出した。鬼に出会えばさすがの奥方も元に戻るだろうと。誰もそれを止めることはしなかった。入り口から大分遠くまで来て、一人がおかしなことに気づいた。足音が一つ多く聞こえるという。試しに数えてみようと、一人が勘定をしはじめた」
“ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう…”
「奥方をいれて五人でこの洞窟に入ってきたのに、数が合わない、一人多い。ゾッとした奉公人、六つ目の足音の主に恐る恐る声をかけた」
“…ああ、美味そうなニンゲンだ”
「返ってきた言葉に度肝を抜かれて、奉公人たちは一目散に逃げ出した。まだ体の弱っている奥方を残して――」
そこで話は一旦途切れた。
何て言えば、いいのだろうか。
ただただ震える姉を傍らに。
俺は何て。
「…ここまでが、この村に住んでいた村人が知る話の流れです」
夕食の時に聞いた優しい千鶴さんの声だった。
「ただ、この話には続きがありましてな…これは、村人も知らない話でして」
千鶴さんはまた語りはじめた。
「その洞窟に残された奥方は、声をあげたものに対して、恐怖も何も感じずに、返したそうな」
“…私は、食べられたって構やしない。死んだあの子に会えるなら、さっさと殺しておくれ”
「声の主は、ほうと一息あげると奥方を食うことはせずに、洞窟の奥に奥に連れていったそうな。そうして、逃げ出した奉公人の話から、今皆が知る鬼隠洞の話になりましたのよ」
そんな重たい話だとは知らなかった。
遊び気分で鬼隠洞を見にきたのが、恥ずかしく思えてきた。
「その後は、奥方は声の主、まあそちらが正真正銘の鬼だったのですが…」
コホンと咳払いして、千鶴さんは続けた。
「奥方は鬼と共に苦楽を背負い、交わいを行い、奥方は一人の子供を産みました。鬼と人の子を…」
鬼が実在して、人との子をつくった?俺にはそれが理解できなかった。
今まで黙りこくっていた姉が口を開いた。
「あの…何故、千鶴さんがその話を知っているのですか?」
「何故、ですか。それは」
襖を全てあけて、千鶴さんと正面から向
かい合った。
物悲しそうに笑み、彼女は言った。
「私が、その子供。鬼と人の間に産まれた子供だからです」