「千鶴さんは、笑ってたけど」
俺より先を歩く姉が言った。
「うん、やっぱり、寂しかったんだろうね」
俺はそれを右から左に聞き流していた。
千鶴さんの民宿を出て、俺達は鬼隠洞を目指していた。
「……村にあの話が広まって、誰も鬼隠洞に近付かなくなって」
姉は俺の方に顔だけを向けて言う。
「更に柵までされちゃって……可哀想」
「可哀想、ね。俺はそうは思わないよ」
姉の言葉に切り込むように口を開く。
「何でよ?」
怪訝そうな表情に、珍しい顔をするもんだと俺は感心した。
「だって、いくら千鶴さんのお母さんが中にいるからって、鬼がいる洞窟を放っておくか? ましてや人に恨まれた人間を助けるような心境になれると思う?」
「いや、でもそれは……」
姉はしどろもどろとして、口の中でもごもご言っている。
「だから余計に、危ないものには蓋をするために柵をしたんだ」
「危ない……何で誰も、理解してあげようって気にならなかったんだろう」
「昔の人間、こんな山あいの集落っていう閉鎖的な空間で、達観した人間なんかいなかったって証拠だろ」
そうこう話ているうちに、二人は鬼隠洞に着いた。
「改めて見ると、禍々しいな」
朝から蝉の鳴く声が響いている。太陽の暑さもハンパない。柵はよく見ればボロボロで今にも壊れそうだ。
「この奥に、行くのよ、ね」
姉は昨日に比べて大分落ち着いていた。
怖がる様子もないのが少しだけ残念だが。
辺りを見回して手頃な大きさの石を探す。
「……鬼ってのは本来、形のないものなんだよ。厄災とか、邪悪なものとか……昔はね、そういった目に見えないもののことの総称を鬼としたんだよ」
探しながら俺は言った。
「ただ、人にできないことができる。人でなしなんだよ」
「……どういう意味?」
「人でない、人で、なし、人でなし、ってこと」
姉は頭上に電球でも出すかのような顔で叫ぶ。
「すごい!あたしぜんっぜんわかんなかったのに!」
さすがあたしの弟、と頭を撫でられる。
嫌な気はしないとは言ったが、素の時にやられると照れる。
「こんなんでいいかな」
いい感じの石を見つけたのでそれにした。
「がんばって」
姉は応援という名の見ているだけの行為に勤しんだ。
「よっ……」
両手で石を持ち上げて後ろに振りかぶる。
「せいっ!」
振り下ろして柵を一つずつ破壊することにしたのだが、意外に骨の折れる作業だった。
柵はどうやら腐りきっていたらしく、簡単に崩れてくれた。人が入り込めるぐらいの形にはなった。
「でも、これ怒られないかな……?」
姉が今更疑問を投げかけてきた。
いやいや、あなたがんばってって応援してたじゃないか。
「うん、そうだけど、さ」
まだ何か言いたそうな姉の腕を引いて、俺は鬼隠洞に足を踏み入れた。
鬼隠洞の奥深く、底といってもいい場所にたどり着くには時間がかかり、二人はヘトヘトになっていた。
「……」
「……」
そのせいか、いつの間にか無言になる二人。
外は夏の日差しで暑かったが、中は逆にひんやりとしていた。
「……っ」
姉は少しだけ肩を震わせている。
「姉ちゃん、寒いのか」
「大丈夫、大丈夫」
そう言って首を振るが明らかに寒そうである。
「少し、休もうか」
何も言わずに姉を抱き締める。
「ちょっ……こんなとこで、なにする気……!?」
「や、しないよ。ひっついてた方が暖かいかと思ってさ」
「……何だ、つまんないの。あたし今からあんなことやこんなことを弟にされてしまうんじゃないかって思ったのに……」
「まあ察してやれよ、最近は甘々な方には走るけど、そっから先の表現はないだろ? つまりそういうことなんだよ」
「ふーん……よくわかんないけど、まあいいわ」
などとしていた時、奥の方から聞こえてきた不気味な、獣の出すような叫び。
それを聞き流したい衝動にも駆られはしたが、今は更に奥に足を進めなければならない。あれ、これっていいのか。
「今の、なに……?」
「さあ……何にしろ、行かなきゃいけない方向だし……」
深い深いその先に待つのは一体。
更に歩みを進めると、洞窟とは思えない香りが漂ってきた。
「ん、これって……海の匂い?」
先にそれに気付いたのは姉だった。
「本当だ、何でこんなところで」
次の一歩を踏み出したら、危うく転びそうになった。
「大丈夫?」
何とか持ちこたえて、踏みとどまった。
「なんか、踏んだ……」
灯りがないからなんとも言えないが、どうやらそれは海藻のようであった。
「……ひょっとしたら、反対側の海と繋がってんじゃないか?」
「海?そういえばあったね……何だか納得」
「まあ、わかんないけどね」
進めるところまで行くと、道は二手に分かれていた。
「どっちかが、海に繋がってるんだろうけど……」
耳を澄ませる、鼻を利かせる。
それにより、ある程度の情報は得られた。
「多分こっちだ」
俺は姉の手を引き歩き出した。
「本当にこっち?」
「多分」
行き当たりばったりでもいいかと思っていた。
間違えたらまた来た道を戻ればいい。
たどり着いたのは、そこそこ広めの空洞だった。相変わらずの寒さではあるが、慣れてしまうとそうでもない。
「広いね……」
姉のつぶやきが木霊となる。
「光が射すみたいだ……」
空洞の天にはぽっかりと大穴が空いていた。
よくよく見回せば、誰かが住んでいた跡があった。
「これか……」
姉はその辺を物色している。俺はと言えば、まあ、姉と同じようなことをしていた。
「ねえ、ちょっと来てー」
呼ばれて振り向く。何か見つけたのだろうか。
「これ、ってさ」
姉が指指していたのは、紛れもなく。
「うん、これはきっと」
少しだけ小高いとこに盛られた土と、そこにのせられている小さな石。
同じものが二つ、並んでいた。
置かれている枯れた百合の花が、それが何かを物語っていた。
「……」
姉は無言で手を合わせ、それらを拝む。俺もそれにならって拝む。
「……いこ」
俺が拝んでいるにも関わらず、姉はもと来た道を戻りだした。
「ちょ、姉ちゃんっ」
すぐに追いついて、後をついて歩く。
心なしか姉の肩が震えているように見えた。
俺は今一度振り返って、空洞に別れを告げた。その時耳についたのは、あの奇妙な音。
何だ、風だったのか。
天に空いた穴から入り込む風の音だったらしい。
「おいてくよ」
寂しそうな姉の声に引かれるように、俺は走った。
「姉ちゃん、ちょっと」
「……なによ」
「暑いから、ちょっと離れてよ」
帰りの電車の中、俺たちは今までにないぐらい…とは言い難いが、結構なべたつき具合で席についていた。
「いや」
鬼隠洞を出た後、一度千鶴さんの民宿に戻った。思い起こせば、昨日の夜。千鶴さんは全てを語らなかった。自分が鬼と人の子であり、その両親は鬼隠洞にいること、よければ会いに行ってみるといいと言って、話は終わった。
民宿の前の掃除をしていた千鶴さんは俺たちの姿を見つけると、ゆっくりとお辞儀をした。
悲しそうな顔をした千鶴さんは言った。
「おりましたでしょう、両親」
その質問に頷くべきかどうなのか、俺には判断できなかった。
ただ、無言で応じるしかなかったのだ。
立ち話もなんだからと、千鶴さんは中へと案内してくれた。
「まだ私が幼かったころ、父と呼んだあの方は亡くなりました」
お茶を出されて、土間で話を聞くことになった。
「あの方は、見た目ほどみすぼらしいものはございませんでしたが、もとは名家の武士だったと聞かされました」
千鶴さんはずっと俯いたままだ。
「私と母に優しくしてくれて、あの閉鎖された空間にいながらも私たち家族は幸せに暮らしておりました。今思えば、あの方が人でないことを全く気にしなかった私はおかしかったのではないかと思えて仕方がありません」
姉は話を聞いているのかいないのか視線を泳がせている。
「もとは人間なのか、それとも鬼であったのか……真実は今となってはわかりません。ですが、幸せに、本当に幸せに暮らしていたのです」
「あの……いくつか聞きたいことが」
「はい、なんなりと」
「まず、あなたのその……胸元の、入れ墨は……」
言い終わったところで脇腹に痛みが。つねられている。痛い痛い、段々痛くなってきた。ちょ、まずい、本当に痛い。声にならない呻きをあげていると、千鶴さんがゆっくりと口を開く。
「これは、あの方の故郷の呪いだそうで……詳しいことはわかりませんが、病弱な私の体を守るものだとしか」
「そ、うですか…」
理由がわかったのはよかった。しかし痛い。よかった、やのつく職業の方じゃなくて。
「あの、昨日出会った時、カゴに入っていたのは」
「ああ、あれはつくりものです。私、人を驚かすのが好きでして」
拍子抜けだ。
何だかもっとびっくりするようなのを期待していたのに。
姉は俺の脇腹をつねるのをやめて、お茶をすすっていた。
「あの…本当に、あなたは」
「それは秘密ということにしておきましょうよ」
俺の台詞に姉が口を挟んだ。
「ね、千鶴さん」
「……ふふ」
千鶴さんは少しだけ微笑んでくれた。
「そうね、女に秘密はつきものですものね」
夏の、夕暮れのことだった。
「お腹すいたー」
まるで子どもみたいだなと俺は思う。
「ね、夕飯一緒につくらない?」
「いいよ。ただし、好き嫌いなしね」
露骨に嫌そうな顔をする姉を見て、不思議と笑みがこぼれる。
千鶴さんは全てを語ってくれたわけじゃなかった。
奥方、つまり母親のことは言わなかった。でもあの鬼隠洞の奥、片方だけに供えられた花が違った。今思えば、千鶴さんの民宿の玄関に飾ってあった花も同じ花であった。
多分、母親の方の墓なのだと思う。
何も言わなかっただけで、愛し愛されていたのだと。
「さ、駅着いたよ、帰ろっ」
電車は地元の駅に着いたらしい。人々が世界崩壊を知らされた中、公共機関の一部はまだ運行しているし、仕事をしている人々もいる。
あの話を信じているのは、本当に一部の平和惚けしている輩のみのようだった。
だけど。
どちらかと言われたら何とも言い返せない。
信じているのか信じていないのか、なんて。
少なくとも、まだ俺たちには時間があるから。
抗うのではなく、純粋に世界を楽しむために。
見えざるものを見るために。
歩みを進めていく。
更なる一歩のために。
俺と姉が、幸せに暮らせる世界を築くために。
「鬼隠洞」 終