朝刊の一面から、誌上を全て乗っとる勢いで掲載されている記事。今や、殺人鬼斎藤の名を知らない奴はいないし、一部では信者が沸くほどの人気を得ているらしい。
もっとも、俺、四塚と、姉の葵には関係ないことだと思っていた。そう、関係ないのだと、思っていたのである。
鬼隠洞から帰った翌日(帰宅した当日は疲れ果てて眠ってしまっていた)の朝刊がそんな感じだったのを記憶している。
殺人鬼斎藤が今までに殺した人の数は、この三カ月で二十八人。三日に一人は殺されているらしい。二十九人目の被害者は誰になるのだろうか。
少なくとも、俺の知る限りじゃあいつにはそれをやる明確な理由はない。かと言って、やったことが帳消しになるわけでもない。何が目的でも、法律に触れた時点で犯罪になるこの世の中で。俺と優しすぎる殺人鬼は邂逅する。
「ふう」
どれだけ疲れていても、身体が反応してしまう。体力的にも、精神的にも悪いだろう。しかし、ある程度の時間さえあれば落ち着く。習慣はちょっとやそっとじゃ崩れないみたいだ。朝の早起きだけに関してはそれが言える。ので、遅刻をしたことは一度もない。
とりあえず、起き抜けに珈琲は胃に悪いので、朝はジンジャーエールと決めている。炭酸最高。その後、テレビをつけようとしてリモコンを探す。見当たらないのですぐに諦めてソファに寝そべった。
カーテンの隙間から朝日が射しこむ。気持ちがいい。後ひと月ほどで世界が崩壊するなんて、思えないくらいに。
鬼隠洞のことを振り返る。千鶴さんは「また来てくださいね」と言っていた。
きっと、いつかのことになるだろうけども。
携帯電話が鳴る。テーブルの上に放置したままの俺の携帯電話。
コールが止まない。
五回…。
六回…。
七回…。
そこでやっと鳴り止む。
俺は携帯電話を手にとり、かかってきた番号にかけ直す。
「やあ、久しぶりですね」
相手はすぐに出た。
「ああ、久しぶり。今日はどうした」
「いえ、特に大したことはないんですけどね。お茶でもいかがかなと」
俺は二つ返事でOKを出した。
それじゃ、一時間後に駅前で。
と言った後、どちらともなく電話を切る。
電話の主は高校時代の同級生、斎原だった。
一年の入学式からの友人で、成績は優秀、顔はいいしその物当たりのよさそうな外見から大多数の人に好かれる存在だった。
ただ一つ難点があるとすれば、優しすぎるが故に自らのすることに対して悉く損をする立ち回りをしていることだ。
駅前と言ったらコメダしかなかった。ひょっとしたらと思って駅前商店街の店を覗いてはみたが、どこにもいなかった。
大体いつもコメダだから、心配する要素はないのだが。
入って見回すと、手を上げた奴がいた。そこへ歩みよっていけば見慣れた顔が二つ。
「やあ、時間通りだね相変わらず、気持ちがいい」
「やあ、時間通りだね相変わらず、気持ちわるい」
二人が同時に喋ってステレオのように聞こえた。後者は無視することにしようといつも懸命に努めるのだが俺の脳はそんな芸当を披露してはくれない。
「何だよ…珍しく妹御まで連れて。デートか何かか?」
俺が言うと、向かって左に座っている兄斎原冬夜が言った。
「いやあ、玄関出たら着いてきたんだ」
向かって右側、妹の斎原和美が言った。
「お兄ちゃん、ついてないと心配で」
なるほど、いつもと一緒か。優しすぎて帰りの遅くなる兄を心配してのことだ、妹御も早く兄離れをしないといけないと思う。……何だか似たような感覚を味わっている気がするな。
とはいえ、この変わりようと言ったら何だろう。兄に対しては優しいのだが、開口一番に気持ちわるいと言われた気がしたが。
二人は一卵性の双子で、背丈も体型も大体同じだった。髪型が違うだけで、顔も同じ。声の高さも似ていて、両側に二人をおいて話を聞くとステレオ感覚が味わえる。
お待たせしました、とウェイトレスが飲み物を運んできた。
何故か俺の分まである。頼んでないのに。これもよくあることだ。斎原と待ち合わせすると、大体が頼んでないのに運ばれてくる。俺の好みを把握している奴がその優しさで頼んでおいてくれるのだ。
多分、斎原が一番俺のことを知っているし、俺が一番斎原のことを知っているのだ。
「ところで今日はどうした」
俺にはオレンジジュースが用意されていた。相変わらずの味に舌鼓をうつ。
「どうしたも何も、こないだの定例会来なかったから資料をね」
和美がカバンから資料を出して俺に渡す。
「また分厚い…」
俺は呆れた。厚さで言えば週刊の漫画雑誌ぐらいはある。
「中身は、知ってると思うけど、例の殺人鬼斎藤について書かれている。しかも事細かにだよ」
声のトーンを落とさずに斎原は続けた。
「あの殺人鬼について、情報なんか少なすぎて何もできやしないと思っていたのにだよ。こんなにも集められるなんて素晴らしいと思わないか」
「まあ、確かにな」
ぱらぱらと資料をめくる。何だこれ、両面刷りじゃないか。つくったやつ誰だよ。
「今読まなくともいい。帰ってからゆっくり読んでほしいんだ」
もっとも、君の姉さんが邪魔をしなければだけど。
そう言って冬夜はカップを手にとり、中身を一気に飲み干す。
「……なあ、この殺人鬼について、どう思う?」
カップを持ったまま、斎原は言う。
「どう、って…」
俺は思う。大抵、斎原が望む答えなんてのは返せない。
「別に、何とも……人を殺すやつのことなんか考えたくないね」
言って肩を竦める。
「だろうね、君らしい答えだ」
にっこりと笑って斎原はカップを置いた。
「それじゃ、この後用事があるから今日はこれで」
席を立つ斎原。妹御の和美も同様に。
「ああ、支払いは済ませておきますから」
「ん、ありがとう」
俺は礼を言って、斎原は先を歩いていった。資料に目をやる。
「……て」
ふと聞こえたか細い声に顔をあげる。
「どう、した」
まだそこに和美がいた。変に意識してしまい声が上擦った。
心なしか、戸惑いと不安とが入り混じったような歪な表情をしていた。
「助けて、あげて」
和美はそれだけを言って走り去っていった。
「……助ける?」
その言葉の意味が俺には理解できなかった。
帰り道、同級生の九支枝優子と出会った。すっかり見違えてしまったが、これも世界の流れなのだろうか。
高校を出てすぐに結婚をした彼女は、今では二児の母親らしい。その二児というのも双子で、ベビーカーの中で二人並んで眠っていた。可愛らしい赤ん坊だ。
旦那は事故で亡くしたとかいう話を聞かされて俺は何と言っていいのかわからなくなった。でも、彼女はこの子たちがいるから幸せだと言って笑った。今は両親と暮らしているそうだ。世界崩壊については信じていないらしく、両親と子供、自分の五人で過ごしている日々に満足しているとか。俺は九支枝とは話したいことがいくつかあったので、またいつか連絡するよと言って別れた。
まだまだ暑い日々が続きそうだ。もう後少しで世界は崩壊する。それを信じていない訳じゃない。臆病な俺には、この世界を放って出ていけるような心はない。だのに、世界は否応なしに崩壊の一途を辿る。連日、殺人鬼の記事と肩を寄せ合っている世界崩壊の考察記事に、俺は見向きもしない。一度、各紙の記事を読み比べたがどれもパッとしなかったし、まともに読めそうなものもなかった。気にはなるのだがどうにも、読む気にはからないものばかりだった。早く帰って殺人鬼の資料でも読むことにしよう。ふと携帯の電源を切っていたことを思い出した。電源を入れると着信とメールが一件ずつ。どちらも葵からだった。よかった、何十件とかじゃなくて。ヤンデレは嫌だなと思いながら足は帰路に向かっていた。
その日の夜、俺は資料を読みながら葵と戯れていた。
そんな時、殺人鬼は二十九人目の被害者を産み出した。
被害者の名は九支枝優子。
翌日の新聞にはまた大きく記事が書かれていた。
皮肉なことに世界は崩壊の一途を着々と辿りつつある。
「 殺 人 鬼 篇 」 開始。