「帰るおうちがわからないの?」
足元で悲しそうな顔をした小さな犬が私を見上げていたのは、雨の降る日の夕方だった。びしょびしょに濡れた体を震わせていたその子を連れて帰ったのは情が移ったからだろう。本当にそうであったかどうかは別として、私には新しい家族がほしいという願いがあった。
お父さんは、家にいても外にいても動物の話は全くしない。きっと、動物が嫌いなんだと思う。連れて帰ったら
「ただい、ま」
恐る恐る玄関を開けて家に入る。雨に濡れて震える子犬を抱えているなんて、まるでマンガみたいな話だった。
「あら、おかえり……」
キッチンからお母さんが出てきて、私と腕の中の子犬を交互に眺める。
「しーちゃん、お父さんならもう帰ってきてるから、着替えだけしてきなさい」
その一瞬で理解してくれたのか、お母さんは子犬を抱き上げてくれた。
「……うん」
私はお母さんの腕の中でまだ震えている子犬を後目に部屋に向かう。上着を脱いで、イスにかけてあったパーカーを羽織った。しかしあまり待たせるのも得策ではないと判断して、部屋を出る。
急いでリビングに向かう。ドアを開けた先には誰もいない。キッチンにいるお母さんが見えるだけだった。
「あれ……お母さん、お父さんは?」
「ちょうど今お風呂行ったわよ」
「なん、だと……?」
等とマンガのセリフを真似ている暇はなかった。
私はきびすをかえして風呂場に足を向ける。
シャワーの音が聞こえていた。だが、お父さんがシャワーを浴びるよりも大事なことが私にはある。
問答無用で風呂場のドアを開ける。
「お父さん!お願いが、あり……ま…………」
その光景は私には信じられなかった。
あまりにも、ショッキングすぎる映像が私を。
「あれ、しづは知らなかったっけ」
夕食の後、いつの間にか帰ってきていた兄と一緒に、私はソファに座りテレビを眺めていた。
「知らないも何もないよ……」
はあ、とため息をつく。
何だか逆に疲れてしまった。気負いをすることもなかったのだと理解した上でのことだ。
「昔っから動物には目がないんだよ、父さんは。テレビでも動物番組見ないのは、ペットがほしくなるからだとさ」
「……信じられない」
そう、未だに信じられないのだ。
風呂場のドアを開けて、私が見たのは、私が連れて帰ってきた子犬の体を洗うお父さんの姿だった。
「嫌いなんだと思ってたのに……」
独白のつもりだったが、兄がそれに返答をした。
「嫌いなら、あんなんならないわな」
目線の先には、体の乾いた子犬と戯れるお父さんの姿があった。
「いや、そうだけどさ……」
私は何もする気力がなくなりかけていた。
「ま、飼えるから大丈夫だろ」
兄の手のひらは、私の頭を優しく撫でた。
視線の先には例の子犬と戯れるお父さんの姿があったのだった。
少女と、
無事に高校デビューも果たして、部活もテニス部に決めてうきうきし始めた春は終わって、夏が来ました。
諌火さんとはお付き合いが続いていて、何度かデートにも連れていってもらいました。
私が毎日、高校生活で忙しいのを、それを承知で諌火さんにはかなり我慢をしてもらっている。ただその分、久々に会ったりすると半端ないぐらいにくっつきた がる人だった。あの逢瀬の日々からではその様子は想像ができないだろう。ギャップは大事だとよく言うが、私はどちらでもよいと思う。その人のありのままを 見せてもらえるなら、それが一番いいと思っている。
でも、私だって寂しくないわけじゃないのだ。
私はもう一人ではない。あの勘違いの期間を今更悔やむこともないのだが、私はたまに思い出してはそれを反芻している。私が独断でとった行動が、誰よりも私を傷つけるぐらいに辛いものだとは気づかなかったのだ。
夏休みも部活があって、諌火さんに会う時間が少ない。少ないけれど、会うって約束した日はきちんと会ってくれる。それが私には嬉しい。今日もこの部活が終わった後に会う約束をしている。
時間なんていつもならすぐに過ぎてしまうというのに。今の私にとっては、この時間が長く感じる。とても、長く。少しは慣れたけれど、やはり寂しいものは寂しい。
諌火さんがくれた宝石はセレスタイトだった。私は宝石に全くと言っていいほど興味がなくて、ただ単に綺麗だなと思って見ていただけだった。
そのセレスタイトを私にくれた本当の理由は、半分は気まぐれだったらしい。もう半分は、誰か別の人がそのパワーを受け取ればいいと思っていたらしい。直接 聞いたのはそういうことであったが、私はただ頷くだけだった。実際、宝石にそんなパワーがあるならもっと信じるだろうし、諌火さんが信じていないと言って 私に渡したものなら尚更だ。でもまだ部屋に置いてある。諌火さんからはじめてもらったものだから。どんな理由があろうとも、私には大事なものなのだ。
今日も夏の陽射しが私を照りつける。日焼け止めの使用を試みたが、私の肌は綺麗に焼けていく。まるでローストビーフを連想させるような焼き色だ。と、実際 そこまでの色味がないことに気がついた。諌火さんに会いたくて会いたくて仕方ないのか、部活中にもぼーっとしていると言われてしまうようになった。
それほど諫火さんのことが好きだということだ。
早く、早く会いたいと思うほどに時間が経つのが長く感じてしまう。
夏の陽射しは、おわることなく私を照らしている。
部活が終わる時間と言っても、大体が夕方で、今日はたまたま昼で終わった。一旦家に帰ってから、諫火さんと出かける約束がある。一週間、会っていないのが辛いと感じるのは、まだ子どもだということなのだろうか。
今日を逃すと、一ヶ月会えなくなる。諫火さんが我慢できるかどうかは、この際おいておこう。私も我慢できる自信がない。
ココアは、私と諫火さんが付き合うようになってからは、若干慣れてくれたようだ。たまに諫火さんに対して尻尾をふっているのを見ることができる。進歩と言えば進歩なのだろうか。相変わらず、一緒にいるのは嫌な様子である。
諌火さんはココアのことを気にしていないようで、私と一緒にいる時は私にべったりだ。それをじっと見るココアは、たまに憐憫の眼差しを向けてくる。
何か言いたいのなら言えばいいのにと私は思う。ただ、ココアが犬であるという点を覗けば、言ってくれていただろう。
今日の天気は晴れと聞いていたのにも関わらず、空はどんよりと曇りだしていた。お昼までは晴れていたのにと、少し落ち込む。でもきっと晴れてくれるだろうと期待をして出かける準備をした。
諌火さんとの待ち合わせまで、もう少ししかない。早めに待ち合わせ場所についたので、私は待っていることにした。人の多い、駅の待ち合わせ場所。金色の時計は目印で、季節や昼夜を問わず人々が待ち合わせ場所として使うところ。この上の百貨店や、周りのビルのテナントに入っているお店は、私のお小遣いでは手の届かないものばかりを扱っているお店ばっかりだ。どうしてそんなところへ来たのかと聞かれたなら、私は諌火さんのお買い物についてきただけなのだということを説明しよう。部活に精を出している内はアルバイトができないのを理解しているので、私にはあまり金銭的な余裕がない。本当に諌火さんの買い物についてきただけなのだ。
「お待たせ」
そうこう考えを巡らせているうちに、いつの間にか諌火さんが来ていた。
「あっ、はい、こんにちはっ」
まずは挨拶。しっかりとしておかないと最初から諌火さんの気が緩んでしまう。
「いい挨拶だね。お昼は食べた?」
私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。
「まだ食べてないです。どこか連れていってくれるんですよね?」
撫でられるのが嬉しくて、その感触を味わいながら答えに疑問をつけて私は返した。
「うん、じゃあ行こうか」
諌火さんは私の手を引いて歩き出していく。その背中に抱きついてしまいたい衝動をぐっとこらえて、私は後を歩く。
ああ、こんなに広かったのか、諌火さんの背中は。
エレベーターに乗り込むと私たちだけになってしまった。見計らったかのように諌火さんは私を抱きしめた。
「すごい会いたかったよ」
消え入りそうな声で囁かれ、私も抱きかえした。今の逢瀬では、こうして二人きりになることが少ないので、少しでも二人きりになれると甘えるようになっていた。私も勿論例外ではなく、隙あらば諌火さんにくっついていた。そうして、人の気配がするまで抱き合い、エレベーターが開く前に離れる。
暗黙の了解と言うやつだ。名残惜しいけれど、今日はまだ一緒にいられる。
遅めのランチをとり、二人で色々なお店をまわった。諌火さんのお目当てのものはなかったらしく、ひどく落ち込んでいた。また来ようねって私が言うと、彼は少しだけ嬉しそうに笑うのだった。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
時計は七時を少し過ぎたところをさしていた。まだ空は明るいし、熱気が涼しくなってきているのも感じられる。
「……はい」
諌火さんと並んで歩く。
いつも、この時は辛い。楽しかったのも瞬く間に終わりを告げて、夜はやってくる。私は夜が嫌いになりつつある。今まで、諌火さんと付き合うまではそんなことなかったのに。夜は二人を別れさせる時だ。
帰りの電車は、諌火さんと同じ。同じ地区に住んでいるから、会おうと思えばすぐに会える距離にいる。でも、互いの生活を切り崩してまで会うようなことはしないと約束をしている。二人でああでもないこうでもないと話あった結果だ。
でも、どうしようもなくなった時には、我慢せずに会おうと決めていた。大概それは、諌火さんの方から破られる。私たちは二人とも寂しがり屋で、前述したが諌火さんは本当にくっつきたがる人である。私はそこまでではないが、その気持ちはわかる。
気がつけば降車する駅についていた。
電車を降りて、私の家まで歩いていく。いつもなら途中で別れるのだけれど、今日は私からお願いをして家までついてきてもらうことにした。ああ、今一緒にいられるこの時間がもっと続けばいいのに。
「梓敦、着いたよ」
私は歩きながらぼーっとしていたらしく、家に着くまでの道筋を覚えていなかった。
「え、あ……」
見慣れた建物が目の前にあった。
「どした? 疲れちゃった?」
諌火さんが私の顔を覗きこむ。
「や、そうじゃなくて、その」
続きを言おうとして唇を奪われる。
「何?」
ほんの一瞬だったけれど。
あまりにも諌火さんがけろっとしているので、私は逆に今の行為が何だったのかと確認し辛い。
「う、うぅ……ズルいですよ、それ」
顔が赤くなっているのを感じて、私は俯く。
「ズルいも何も、僕がしたかったからしたんだよ。ダメだった?」
首を傾げる仕草が、少しだけ気になった。
「ダメじゃない、ですけど……」
意を決して私は言う。
「もう一回、してください」
顔をあげて諌火さんを見据えて言った。きっとまだ顔は赤いだろう。
「普通のを? それともやらしいやつ?」
そこで選択肢をくれる諌火さんに驚いたが、私は即答していた。
「普通ので」
言ってから、やらしいやつと言えばよかったかと若干後悔した。
諌火さんは私の肩に手を置いた。
「はい、まずリラックスしてー肩の力抜いてー」
言われるがままに私は動く。
「目をつむってー深呼吸してー」
好きな人に触れられているだけでドキドキするのに、私は今、更にドキドキするようなことをされようとしている。
「じゃ、するね」
私が返事をするよりも先に、諌火さんは動いた。
唇と唇が重なりあって、離れた。
「これでよかった、かな?」
諌火さんは私の頭を撫でていた。
「……はい、ありがとう、ございます」
顔から火が出そうだ。それぐらい私は赤面して、あああああってなっているはずだ。何を頼んでいるのだ一体。
「本当、梓敦はほっとけないな」
ぎゅっと抱きしめられて、私は心が落ち着くいていくのがわかった。
「もう……諌火さんが、悪いんですよ」
ぼそっと呟く。諌火さんは何も言わなかった。
空はまだ明るみをさしている。
「じゃあ、また次回」
急に解放されて、私の満足度は中途半端にしかたまっていない。
「1ヶ月ってすぐ、ですよね」
恐る恐る確認する。諌火さんはくすくす笑いながら答えてくれた。
「うん、すぐだよ。僕が先にしびれを切らすと思うけど」
あははと笑い、諌火さんは私の手をとる。
「それではまたお会いしましょう、お嬢様」
あの時みたいに手に口づけをして、諌火さんは立ち上がる。
「じゃ、また」
「はい、また」
手を振って、彼は歩いていく。
私は手を振りかえし、彼の背中を、見えなくなるまで見送っていた。
続 少女と、
了
何かが崩れる音がして、私は孤独を知った。そしてそれ以上に、状況を理解しようとしないで、本能の赴くままに行動をとった私が嫌いになった。嫌いになった私をどう処理していいのかわからずにいた。
その日、私は年内最後になる逢瀬を噛みしめるために公園に向かっていた。いつもと同じ時間、いつもと同じく不機嫌なココアを連れている。違うところがあるとすれば、諌火さんに渡すためのプレゼントを持っていることともう一つ。諌火さんを想う気持ちがあった。今日はクリスマス。あわよくば、プレゼントと一緒にこの気持ちを伝えたい。形だけになってしまってもいいから、私は気持ちを伝えたかった。
あの席は、私だけの指定席だと。そう、思っていたんだ。
公園に着いた。諌火さんがいるいつものベンチは、この位置からじゃ見えない。勇気を振り絞って公園に足を一歩踏み入れる。後は、この勢いでベンチまで行くだけ。そうすれば、私にしかできないことができる。
鼓動が高鳴る。緊張してドキドキしている。伝えるんだ、必ず。この気持ちを、彼に。
ベンチが見えてきて、思いもかけない光景に目を見はった。私は立ち尽くし、血の気が引くのを感じていた。これが世界の終わりなのかと、強く思い、溢れる涙を堪えられなかった。いつもなら気にしていないココアも、この時ばかりは私を見上げて小さく鳴いた。
その鳴き声で、諌火さんが私に気付いて、こちらに手を振った。私はそれに振り返すことができない。あの笑顔がまぶしいからではなくて、諌火さんの隣に、一人の女性が座っていたから。
私が、そこに座っているはずなのに。
思い上がりも甚だしかった。急激に私の心は凍りついていき、何もかもが信じられなくなった。私の中でそれは崩れていく。誰もその崩壊を止められない。一体、誰が私を助けてくれるのだろうか。
携帯がずっと鳴っている。どうやって帰りついたのかは覚えていない。
私はベッドの上でうずくまっていた。部屋のドアをカリカリと引っ掻く音が響く。ココアが私を心配しているのだろうか。
携帯の液晶に表示されている名前は、桐島諌火。何故か電話に出ることも出来ずにいた。
ずっと鳴り止まない携帯の電源を切ったのは、部屋に閉じこもって一時間ぐらいしてからだ。
それから眠ってしまったらしく、部屋をノックする音と、お母さんの声で目が覚めた。
答える気にもならなくて、あえて返事はしなかった。やがて諦めたのか、気がつけばお母さんの気配はなくなっていた。
私は諌火さんの連絡先をすべて着信拒否にした。その後アドレス帳から消した。
着信履歴も、メールも、全部消した。
こんなにも好きだったのに。
狂おしいぐらいに、私は諌火さんを好きになってしまっていた。私は失恋した。
連絡先もメールも消したのに。
消えないこの気持ちが辛い。私を蝕むその気持ちが、私を何度も絶望へと突き落とす。私が、それでも諌火さんのことを好きだという気持ちが。
苦しくて切なくて寂しくて怖くてまるで夢のように感じた、その日々が無くなってしまう。机の上の片隅に置かれた小さな小瓶には、あの時の宝石が入ったままだ。そっと、見えないところにしまい込んで、私は想いを断ち切った。
年が明けて私は受験勉強に没頭した。第一志望は公立だけど、気は抜けない。希望も支えも何もない今、私はそれ以外に目を向けることができなかった。
時々、携帯を眺めてぼーっとしていると言われるようになった。よっぽどだったのだろうか、あの出来事は。今も鮮明に思いだすことができる。彼の笑顔と、隣に座っていた彼女のことを。思い出す度に気が滅入る。だから、何も考えない。もうあの時のことは考えないことにしていた。
そうして、陽は上り、また落ちていった。季節は巡り、暖かい日がつづくようになったころ。
無事に第一志望校に合格し、晴れて卒業式を迎えることができた。荒んでいた私の心はある程度持ち直したようだった。
一時期の抜け殻のようだった私とはお別れを済ませたし、これで後は春からの新生活に力を入れるだけだ。
それでも、何かが足りなかった。
卒業式の帰り道、何の気なしに私はあの公園に向かっていた。期待も何もないけれどしかし、まさかという考えがあった。
誰もいないベンチがぽつんとあり、私はほっと息をついた。何かあるよりは全然よいと思い、ベンチに腰掛ける。やはりそれはまさかに過ぎなかった。そんな都合のいいこと、あるはずがない。だが、何もないのも辛い。
まるで昨日のように思いだせる、あの逢瀬にあの日々。今でも、瞳をとじれば瞼の裏に浮かぶ彼の姿。耳に残る彼の声が。
「……何か、あったのかい」
「……いえ、何も。思い出をかみしめているだけです」
私は問いかけに対して答えていた。
幻聴かと思っていたのに、それが現実のものだったから。
ゆっくりと瞼をひらく。
ざあっと風が舞って、桜の花びらが散っていく。
「卒業、おめでとう」
変わらぬ姿の、いや、つい数ヶ月前に見た時よりも薄着の彼がそこにいた。
目と目が逢う、瞬間。
好きだと気づいた。
「あれはただの知り合いだよ」
諌火さんの話を整理すると、どうやらあの女性は大学のゼミが同じで、たまたま公園で出会っただけらしい。
彼女だと思った私の早とちりだったということであった。まさか勘違いだとは、今更ながらに恥ずかしい。だがそれよりも前に後悔をしていた。何故あの時きちんと話を聞いておかなかったのだろうか。
「何度も電話をかけたし、メールもしたよ。その度に留守番電話センターや、mailerdaemonから連絡が来る。誤解も何も解けたもんじゃないよね、本当」
まあ誤解というか君の勘違いなんだけど――そう言って諌火さんは笑う。そのまま私の正面にしゃがみこんだ。
私はもうこれまでにないほどに安心した。しかしそれに比例する勢いで後悔もしていた。
「そんな顔する梓敦ちゃん、初めてみたね」
反射的に、おかしそうに笑う彼をキッと睨む。
「そんな顔したって怖くないよ」
頭をぽんぽんと撫でられ、一瞬で気分が落ちついていく。このままずっと撫でられていたいぐらいだ。
「急に来なくなったから、心配してたんだよ。連絡もつかないし、事故にでもあったのかなとか」
本気の困り顔で、苦笑する諌火さんが少し微笑ましく見えた。
「ごめんなさい……」
気持ちに片をつけるより早く、口から言葉を発していた。
「気にしてないよ。それより、寂しくなかったかい?」
何でもお見通し、か。実際、受験勉強に精を出していたせいもあって、そんなに気になっているつもりはなかった。
「少しだけ、ですけど」
本当はそんなこと言いたくない。言いたくないけれど、言わなければ伝わらない。
「そっか、少しだけか」
何だかつまらなそうな顔で彼は言う。
「残念だな、こっちは夜も寝られないほど寂しかったってのにさ」
思いもよらぬ言葉が聞こえ、私の心を定めさせる。
諌火さんはニコニコと笑ったままだ。夢なのかもしれない、これは。自分の頬をひっぱったり、腕を抓ってみたりした。大丈夫、痛いから夢じゃない。
「梓敦ちゃん、あのさ」
「はっ、はいっ」
トリップ中に呼ばれて声が跳ね上がった。
「いやあ、最近の中学生は大人っぽい下着をはいてるんだなと思ってさ」
大人っぽい、下着……?
諌火さんの言わんとしていることが理解できない。
私が疑問符を浮かべていると、諌火さんはニヤニヤしながら言った。
「ほら、目線目線」
目線と言われ、誰の目線がどうしたのかと考え気づく。
「えっ、ちょっ!?」
諌火さんの目線がどこにあったかを考えておくべきだった。そりゃあその目線ならスカートの中を見ることは可能だ。しかも、話をしている間中ずっとだ。
恥ずかしいやら怒りやらで、私は顔を赤くした。きっと今の私なら、リンゴの赤さを越えられるかもしれない。
「あはは、かわいいなあ君は」
彼はそう言って立ち上がり背伸びをしだした。見れば見るほど薄着である。
「じゃ、これからまたバイトなんで」
私の答えも聞かずに、彼は歩きだしていた。
「あっ、待っ……」
言いかけて気づく。私はこのまま、この気持ちを伝えていいのだろうか。一人で勘違いしていた上に、好きですだなんて言えない。言ってたまるかというのが本音ではあるが、それでも。ベンチから立ち上がるとガタンと音が響く。
ゆっくりと彼は振り返る。私を見る瞳は、何を見据えているのだろうか。
言葉に詰まる。心臓が高鳴って、喉が張り付く。
「あの、もしよかったら、なんですけど」
私は覚悟を決めて、口をひらく。
「私と、その」
やり直しの利かない世界だから、全力を尽くす。
だったら、どうなっても構わない。そう決めていたはずだ。
「お付き合い、してくださいっ」
叫ぶような形で声を張り上げた。
天を仰いで、言葉を待つ。風が吹いていき、決して長くはない私の髪がなびく。想いをぶちまけて、すべてを彼に託した。
「それって、好きってことかい」
確認するように、声が聞こえてくる。顔を彼の方へ向けると、すぐ目の前にいた。近い。ここまで近いのは初めてだった。
「……はい」
私の答えに対し、彼は一度だけ口端をあげて微笑んだ。
そのまま足元にしゃがみこんだかと思うと、片膝をついて私の手をとり口づけた。
顔をあげて彼は言う。その顔は、とても嬉しそうな笑顔。
「僕なんかで、よければ」
私の人生に、やっと春が訪れたようだ。
「少女と」 おわり
原案 くろねこ 「少女とココアと時々青年」
執筆 一記
specialthanks 読んでくれた皆様
風が冷たくなってきて、私と諌火さんは何度か逢瀬を重ねた。
互いに話すことはどれも他愛もない話ばかりなのだけれど、それが今の私にとって心地よいのだと知った。春の風はまだ、私たちのもとには訪れやしないけれど。
陽が落ちるのが早くなって、私はその逢瀬には必ずココアを連れていくことにした。通り魔だとか何だとかで危ないからと、お母さんが言っていたからそうしている。実際問題、私はココアのことは嫌いではない。そういった観点で見るなら、どちらかと言えば好きだ。かわいいし、何より大事な家族の一員であるから。
しかしこの逢瀬に限っては、ココアは常に機嫌が悪い。まるで諌火さんに嫉妬しているかのようである。それはそれで、私は嬉しいと思う。ココアもなんだかんだで私を好いてくれているのだということがわかるから。
今日も諌火さんに会うために公園に来た。会う約束はしていないが互いにそれが習慣のようになっていて、何も言わずとも会うようになっていた。陽は落ちかけていて、今日も寒い風が頬にあたる。
私は少しだけ早足になった。諌火さんに会いたいからだ。
何も会って会話するだけが手段ではない。メアドは聞いているので、メールすることもよくあるのだ。ただ、諌火さんが忙しいといけないと思って、そう日に何度もメールをするのは控えている。週に一度は会えるから、週の半ばぐらいでメールをしあう。その内容も、大したことはない。それに限っては、ただメールできるだけで十分なのである。
いつものベンチに向かうと、いつもと変わらない諌火さんの姿があった。
「こんばんは、諌火さん」
こちらに気付く前に声をかけると、読んでいた本から顔をあげて私に目を向ける。
「やあ、こんばんは。今日も寒いね」
諌火さんはいつも薄着で、見ているこちらが余計に寒くなるぐらいだった。
「あの、いつも思うんですけど、寒くないんですか?」
私の問いかけに、ずれたメガネを指で固定しなおして彼は言う。
「ああ、気にならないんだよね、あんまりさ」
熱いのも同じでさ、と言う彼は涼しげな顔をしている。私にはそれな理解できない。
「え、でも、気にならないだけですよね、それって」
「はは、そうだよ。気にならないだけ。だから実は寒い」
綺麗な笑顔がまぶしくて、私は思わず何度か瞬きをする。
ココアは相変わらず無愛想だ。ベンチの、諌火さんが座っている側とは逆の方へと座る。
「……」
二人だけ(正確には二人と一匹)の時間だった。私はいつの間にか、諌火さんを意識しはじめている。
気がついたら、諌火さんのことで頭がいっぱいになっているのだ。
「梓敦ちゃん、コーヒー飲める?」
不意に聞かれて、私は少し挙動不審になる。
「えっ、あ、はい、飲めますっ」
声が上擦ったが、諌火さんは気にしてないようだった。
「缶コーヒーだけど、よかったら」
そういうと彼は缶コーヒーをバッグから取り出して渡してくれた。
「あ、ありがとう、ございます……」
まだ暖かい。かじかむ指先には少し熱いぐらいだけれども、私は平気だった。
その缶コーヒーを開けて、私たちはひとしきり話をした。
そして、帰る時間が来た。
「それじゃあ、ね」
私に手を振り、諌火さんは歩き出した。
その背中を眺めて、あることを聞きたくて投げかける。
「あのー、彼女っているんですかー」
少し離れたところから諌火さんは振り返って答えてくれた。
「いないよー」
短い答えだったが、いないと言うことに私はほっとした。
諌火さんはまた歩き出して、私はその後ろ姿をずっと目で追っていた。
しばらくすると、クリスマスだ。私は諌火さんにプレゼントを用意しようと思った。
そうして時間は過ぎていき、私はクリスマスを迎えることになる。
現実はとても脆くて非常なものだと理解をした。
「少女と 3」 つづく
飴玉かと思っていたそれは、宝石だったらしい。
今日は散歩とは関係なしに、一人で公園な来ていた。ただ、その宝石をくれた理由を知りたかっただけだ。
このところ、連日この公園に通っている。
会えることに期待しているのだろうか、それとも。
初めて出会った日から一週間、やっと会うことができた。
「あ、あのっ」
彼は手元にある本から視線をあげて私を見た。
眼鏡の奥に、澄んだ瞳が見える。
「何かご用ですか」
まるで機械のように、無機質な声で彼はつぶやく。
「その、こないだの、これ……」
私はポーチの中から小瓶を取り出す。中には、あの宝石が入っている。
「なんで、私にくれたんですか」
初めて会った私に、なんで――そこまで言って、言葉を待った。
彼はぼーっと私の顔を見て、そして目線を徐々に下に下ろしていく。
まさか、変質者だったのか? そんな思いがよぎり、私の身体は強張っていく。
「ああ、君か。犬連れてないから、誰かわからなかったよ」
あははと笑う彼は顔を横に背けてひとしきり笑うと、深呼吸をして私に向き直った。
「いや、すまないね」
咳払いをして、彼はもう一度口を開く。
「君は何が知りたい? 僕がそれを君にあげた理由か、それとも」
私はゴクリと唾を飲む。何故だかわからないが高揚感を感じていた。
「と、あまり喋っていいことじゃないんだよねこれ」
肩の力が抜けたような気がした。
「まあ簡単に教えておこう。ただの気まぐれだよ」
物凄くシンプルな理由だった。それが実は嘘なんじゃないかと思えたぐらいだ。
「気まぐれで……会ったこともない相手に簡単に渡すようなものですか、これ」
小瓶の中を通して彼を見ていた。
「誰が持っていても同じものだからね、いいんだよ」
彼はベンチから立ち上がり、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
こないだはよく見ていなかったが、綺麗な顔立ちだった。
身長は私より頭二つ分ほど高く、ひょろっとしているように見えたが、肩幅はあるようだった。
私の前に立って彼は言う。
「デートしようか」
私は間髪入れずに答えていた。
「は、はい!」
誰も予想しえない答えに、互いに戸惑ってしまった。彼は何だかばつが悪そうな表情をしているし、私は更に頭の中が混乱してきている。
そのうち、私たちは笑いはじめるのだ。
何もおかしなことはないのに、私たちは気まぐれのように笑いだしていた。ちぐはぐな歯車が、回りだしたのはこの時だったようだ。
「ってことが、今日あったのよ」
リビングで髪を乾かしながら、私はココアに向かって話しかけている。両親は健在で、父は今出張中、母はお隣の佐山さんと井戸端会議だろう。
私にとって今この瞬間が一番安らげる時間だった。
「それでね、名前も教えてもらったの。諌火さんって言うんだって」
ココアは私には目もくれずに足よりは長い尻尾を振りながら欠伸をした。
「諌火の、いさって字は、ごんべんに東って書くんだってさ。それに、燃える方の火って書いて諌火さん」
それでもお構いなしに私は口を開く。
「大学生で、たまにあの公園でアルバイトまでの暇を潰すためにいるんだって言ってた」
何だか、他人のことなのに、話すのが面白い。今までにはなかった経験だ。
もしかしたら会えるかもという期待は、私の心を踊らせる最高の材料だった。その証拠が、今だ。普段でもここまで饒舌になることがないと自負している私が、そう言うのだから間違いはない。
「私も名前聞かれちゃってさ、教えてあげたの。そしたら、梓敦ちゃんって」
異性にちゃん付けで呼ばれたのが、珍しくて嬉しかった。
私の頭の中には今、諌火さんのことしかなかった。
「ねえ、聞いてるのココア――」
夜は更けていく。
結局宝石は返しそびれてしまったのだが、それはまたの機会にきちんと話をしようと思っていた。携帯の連絡先もメアドも聞いた。けれど、この時はそれどころじゃなかったのだ。会えたことが嬉しくて、嬉しくて。
終わらない夢のような日々が始まるのだと、私は信じて疑わなかった。
「少女と青年 2」 つづく