一体誰が僕の名を呼ぶのだろうか。
何も変わらぬまま、三日が過ぎた。
一つ、驚いたことがあったのを除けば。
本当に、この世界は何も変わらない世界だということを実感した。
「そうそう、明日からお祭りがあるのだけれど、行ってみてはどうかな」
夕食の席で、エンリッヒが言った。
「お祭り、ですか?」
手にしたライ麦のパンを皿に置いて、僕もそれに答える。
「そう、お祭り。町の聖誕祭みたいなもんなんだけどね」
エンリッヒはそれから一人で話はじめた。
十分ぐらい、延々と。
僕が口を挟む暇がないぐらいの饒舌だった。
「と、まあ、歴史とかそういったものが絡んでくるんだよ」
「そうなんですか……じゃあ、行ってみようかな」
結論としては、そんな感じになった。
エンリッヒは笑って、夕食を続けた。
三日。
エンリッヒの屋敷で目覚めてからの日数だ。
確かにここは、元々いた世界だった。
カムパネルラと過ごした日々がある世界だった。
夢を見ているわけではなかった。
連日、夢の中で呼ぶ人のことだけが、謎だということ。
それが誰なのかを探しあてるために、この三日間、色々と考えてみた。
けれども、それだけじゃ何も手がかりは見つかりっこなかった。
世界を渡ることさえ、この世界の技術ではできっこないのだし。
町も、少しだけ見てまわった。
少しと言っても、本当に少し。
屋敷の周りや、近くの川とか。
そういった本当に周辺だけを見てきた。
どうもこの町は鉱石を主流として扱っているらしい。
外の灯りは、全て鉱石を使ったものになっている。
図書館はある。
明日から通いつめてみようかと思ってはいるが、少し遠い。
何とかなるだろう。
そうだ、驚いたことと言えば、それは。
この世界の年代のことだった。
目を覚ました翌日、確認のために聞いて驚いた。
世界暦1008年、五の月。
カムパネルラや家族と旅行に出ていた時期と重なる。
まさか、とは思ったがしかし、そう考えるとつじつまがあう。
あの時期は丁度、祭りのある場所を転々と旅行していた。
だから、もしかしたら。
僕は矛盾を生む可能性がある。
同じ世界に、同じ人間が同時に存在するという矛盾を。
「お嬢様、それでは先に休ませていただきますね」
「うん、おやすみルナリア」
一礼して部屋を出て行く彼女を見送った後、僕は外を眺める。
雨が降っていた。
もうすっかりここの生活に馴染みはじめている。
でも、何か大事なことを忘れている気がしてならない。
一体、何だったろうか。
服のポケットに入っているブローチは、カムパネルラのものだってことはわかっている。
でも、このピアス。
いつものピアスではないのはわかっている。
一体、どうしたというのだろう。
形的に、対になるような、そんな感じがするものだった。
「……一体、僕は、どうしたいのだろう」
思い出せないことが、何故か悔しい。
そうして、僕は。
流れる涙を拭って、ベッドに入った。
祭りは、一週間ほどやるらしい。
多分、その祭りのどこかで、僕は彼女と一緒にあの宿に泊まる。
確か、最後の日だったと記憶している。
それまでは、どこか別のところにいるはずだ。
曖昧な記憶で、僕は思い出す。
とりあえず、ルナリアに図書館までの道のりを聞こうと思う。
そして、手がかりを探さないといけない。
結局、何も手がかりなんてものは見つからなかった。
朝から晩まで、図書館に缶詰だったのだけれども。
一日目にして、これじゃあ。
先が思いやられる。
それどころか、何もないだなんて。
エンリッヒの屋敷に帰る途中、出店の並ぶ中で。
「お嬢様、今お帰りですか」
声をかけられて振り向くと、ルナリアとエンリッヒがいた。
「あまりにも遅いから、二人で迎えに行こうってね」
エンリッヒが言い、ルナリアがこちらに駆けてくる。
「お嬢様、お腹空いたでしょう?」
「うん、もう、それはもうものすごくね」
じゃあ、帰って夕飯にしましょうか、とルナリアが言う。
「ルナリア、そのだな、その辺で何か買っていこうと思わないか」
エンリッヒが少し遠慮がちに言う。
「駄目ですよ、今夜の夕食の買い物、済ませちゃったんですから。それに、今月はちょっと厳しいんですから」
どうやら財布の紐は彼女が握っているらしい。
「や、そこを何とか、そうだ!こないだの論文の手当て金があったろ?せっかく彼女もいることだし」
横目の視線が僕に投げかけられる。
これは僕をだしに使おうという魂胆が丸見えだった。
普段ならそれに乗ることはないが、たまにはいいだろう。
僕は大いにそれに乗った。
「ね、ルナリア、僕あのお店気になるんだけどさ」
「わわわわわ、ちょっと、お嬢様ぁっ!?」
ルナリアの腕を掴んで僕は近くの出店に走る。
「もう、お嬢様ったら」
ぷんぷん怒る顔が可愛らしい。
「おいおい、ワタシを置いて先に行かないでくれたまえよ」
エンリッヒが僕にだけ見える角度で、ウィンクをした。
僕はそれを受けて、にひひと笑った。
お祭りなんだから、楽しまなきゃ。
そう思ったうえでの判断だったのだから、許してくれるだろう。
「あー、もう食べられないねこれは」
エンリッヒがキセルに火をつけながら言う。
「もう、旦那様もお嬢様も、食べすぎですよぅ」
ルナリアがぐちぐちと呟いている。
「でも、おいしかったからいいじゃない」
僕が言うと、すかさずエンリッヒが口を開く。
「まあでも、ルナリアの料理には敵わないけどね」
僕もうんうんと頷く。
「そ、そうですか?」
困ったような嬉しそうな顔をしてルナリアが言う。
照れてる顔も可愛いものだ。
「さて、帰ろうかね。今夜はもっと騒がしいからね、暴動でも起きたら大変だし」
支払いを済ませて、僕たちは店を出た。
「あー、お祭りって、いいねやっぱり」
エンリッヒが子供のように思える。
実際、僕もそう思うのだけれど。
屋敷に戻る途中で、広場を通った。
大きな火の前で、楽器隊が演奏をしているのが見える。
「おお、あれは町の青年団だよ。歌い手がいないのがたまに傷なんだがね」
「歌い手がいない?」
僕が聞き返すと、ルナリアが答えた。
「ええ。昨年まではいたのですけれど、歌い手さんがお嫁に行ってしまわれて……」
言いながら、どこか様子のおかしいルナリア。
「ルナリア、行っておいで」
エンリッヒが言うと、ルナリアは手荷物を全てエンリッヒに預けて、楽器隊のところへと駆けていく。
「え、何、ルナリア、何するの?」
僕は子供のように尋ねる。
「ま、いいから見てなさい。ほら、そこの屋台で何かつまもう」
エンリッヒに連れられて、小さな屋台のカウンター(というかただの椅子)に座る。
「とりあえず、何かつまみと酒を。マリッカ、君は何にする?」
「あ、じゃあ僕も同じので」
しれっとした顔で注文を告げる。
店の親父ははいよと返事をして、準備を始めた。
「君、子供なのに呑めるのかい?」
エンリッヒが不思議そうに聞く。
「ま、少しだけね。タバコもやるし、女も嗜むよ」
気軽に笑っていう。
「ははっ、そりゃあいいね。帰ったら是非ゆっくりとやりたいところだよ」
エンリッヒが笑って答える。
多分、冗談か何かだととったのだろう。
それでも構わなかった。
なんだか、気分がいい。
「お、はじまるぞ」
エンリッヒから、楽器隊に視線を移す。
中心に、ルナリアがいた。
「聞いて驚け、見て驚け、ってやつだ」
エンリッヒが言う。
楽器隊の演奏が始まって、ルナリアが歌い始めた。
それを耳にした周囲の連中が静まる。
大して僕は期待していなかったのだが、ルナリアの歌唱力には驚かされた。
屋敷では歌うことなんかない、メイドだというのに。
楽器隊の演奏にあわせて、歌うわ歌う、踊って跳ねての大舞踏。
綺麗な歌声に、僕と周りの客は聞きほれた。
まるで、今この世界に彼女しか存在しないかのように。
ルナリアは、歌った。
その姿に、僕は何かを見た気がした。
とても大切な、何かを。
夢の中の、人がちらつく。
一体、これは、何なんだろうか。
「すごいね、ルナリア!僕感動しちゃったよ!」
帰り道でのことだった。
「そ、そうですか?そんなに言われると、恥ずかしいですよ……」
赤い顔をしたルナリアの腕を抱いて歩く。
「うむ、相変わらずいい歌声だったぞルナリア。大儀だった」
エンリッヒが誉めて、ルナリアは更に顔を赤くする。
「もう……」
ルナリアは駆け出して、先に屋敷に入っていった。
「照れてるね」
「ああ、照れているねあれは。昔からそうだ」
僕もエンリッヒも、なんだか穏やかな気持ちだった。
ゆっくりと歩く。
屋敷はすぐそこだったから、急ぐ必要はなかった。
「そうだ、そういえばマリッカ、君は何故図書館にいったんだい?」
急に思い出したかのようにエンリッヒが言う。
「え、あー、うん、それは」
真実を言うべきか?
ここまでよくしてくれている二人。
見ず知らずの僕に、理由を聞かずに屋敷に置いてくれている。
そんな、優しさに甘えているだけの僕は。
真実を、言うべきなのか?
騙していると言っても、過言ではないのに。
「どうした、マリッカ」
ひょいと身体をもちあげられる。
「え、ちょっと、エンリッヒ!何するんだよ!」
そのまま肩車されて、僕はその状態で落ち着いた。
「いや、肩車してみたくてね」
はははと笑っているエンリッヒ。
駄目だ、この人酔ってるよ。
「……実は、その」
「まあ、言いたくないなら言わなくてもいいよ」
言おうとしたところでそう言われて、バランスを崩しそうになる。
うまいことエンリッヒが身体を傾けてバランスをとった。
「各々、理由があってそこにいるんだからね。君も、浜辺で倒れていたってことは何かがあったってことなんだろう?」
淡々と語るエンリッヒ。
「……うん」
僕はなんだか、申し訳ない気持ちになった。
「だから、いいんだよ。いつか、いつでもいいんだ。言ってくれるなら、それでいいし、言わないんだったらそれでいいんだ」
「……ありがとう」
「お礼なんていいのさ」
エンリッヒはそう言うと、僕を担いだまま走り出した。
「早く家に帰って、ルナリアの淹れてくれる紅茶を嗜もうじゃないか」
まるで、本当の子供のようなこの人を。
僕は信じたくなったんだ。
翌日の朝は、ひどいことになった。
「さあ今から呑むよ!ルナリアも一緒だ!」
と、エンリッヒが言ったので、朝が来るまで飲み明かすことになったのだ。
おかげで二日酔いもいいところ、気分が悪すぎて、動くことすらままならない。
頭痛も酷いし、これはどうしようもなさそうだ。
「お嬢様、お休みになられるのでしたらお部屋で」
ルナリアに言われるが、それどころではない。
「……無理、動くと、吐きそう……」
ソファから動こうとすらしない僕を見かねて、ルナリアが毛布を持ってきてくれた。
「では、よくなられるまでこちらでお休みになっていてくださいね」
そっと毛布をかけて、そのまま仕事をしはじめるルナリア。
どうも彼女は、ざるらしい。
呑んでも呑んでも、酔うことのない。
羨ましいよ、本当。
気分の悪さをおさえるべく、ひと寝入りしようとして。
頭痛もきていたことに気づく。
これは寝るのに相当な時間がかかるだろう。
僕はとりあえず、目を瞑った。
「マリィ」
夢の中だ。
また、同じ夢だ。
「こっち、よ、マリィ」
僕を呼ぶ声。
今度ははっきりと姿が見える。
「マリィ、はや、く」
一人の少女。
見覚えのある少女だ。
僕のものと似た形のピアスをしている。
カムパネルラではない。
ルナリアでもない。
「マリィ」
僕を呼ぶ、その声に。
答えるが、声が出ない。
探していた。
彼女を探していたことを。
守ると約束したのに。
離れてしまったことを。
互いに、交わした言葉があったのに。
「マリィ、愛して、います」
名前が、思い出せない。
すぐ目の前にいるのにも関わらず。
僕は。
微笑む彼女を前にして。
手を伸ばすが、届くことはなく。
彼女は遠ざかっていく。
ああ、待っておくれ。
僕の。
僕の愛する。
「お嬢様、お嬢様」
身体を揺さぶられてハッと目を覚ます。
「あ……ゆ、め?」
夢、だった。
「よかった、お目覚めになられて」
僕の顔を覗きこむルナリア。
「うなされていたから、心配になったのですよ」
「うなされて、たの?」
僕は掠れた声で聞き返す。
「はい、それにうわ言で誰かを呼んでいらっしゃったようですが……」
酷いものだ。
夢でうなされるだなんて。
「呼んで、た?なんて言ってた、僕」
「ええと、確か……ハインとか、ハイネとか」
ハイネ。
「……ハイネ?」
反芻した言葉に、記憶が紡がれる。
忘れてしまったはずの記憶が呼び覚まされていく。
「はい、そうだったと思いますけれど……悲しい夢だったのですか?」
「え……?」
ルナリアの手が、僕の頬を優しく撫でる。
「涙が流れておりますよ、お嬢様」
ルナリアの手がある方とは逆を自分の手で触れる。
確かに、涙が流れている。
「ハイ、ネ……」
そうか。
そうだったのか。
全てを思い出した。
「ただいまー……っと、どうしたんだい二人とも」
部屋に入ってきたエンリッヒが、こちらを見て驚く。
「何かあったのかい……って、何を泣いているんだマリッカ」
優しく頭を撫でてくれるエンリッヒ。
「ん……思い、だした……ぐす……」
「思い出した?何をだい、マリッカ」
エンリッヒが優しく声をかけてくれる。
ソファの空いているスペースに腰掛けて、僕を優しく抱いてくれる。
「僕、約束、したんだ」
ルナリアが部屋のポットで紅茶を淹れてくれている。
「約束か。誰とだい?」
諭すように、まるで父親のようにエンリッヒが問う。
「好きな子を、守るって、ずっと、離れないって……それなのに、それ、なのに」
涙が止まらず、僕は泣き続ける。
優しく僕を抱きしめるエンリッヒ。
紅茶をテーブルに置いて、僕を挟むような形で、ルナリアが隣に座る。
「泣かないでお嬢様。その方は、今どちらに?」
優しい音色の声。
僕は彼女のことを思い出す。
「……違う、世界に置いてきた。会いたい。会いたいのに……もう、会えないんだ」
幼児のように泣きじゃくる僕。
僕の言葉を聞いても、驚く様子のない二人。
もう戻れない。
向こうに戻るてがかりすらないからこそ。
ルナリアが、僕の背から抱いてくれる。
僕とルナリアを包むように、エンリッヒの大きな肩が抱いてくれる。
久しく、感じえることのなかった感覚だった。
僕の中で、この温もりに感謝したい気持ちと、ハイネに会いたい気持ちと、もう向こうの世界に戻れないという悲しさが入り交じっていた。
そうして、それから四日後。
僕は一つのチャンスに巡りあうことになった。
界渡りの列車の噂を、聞いたのだ。