夏。
私としては暑いのは実は苦手なのだけれど、そういうことも言っていられない。梅雨明けだってまだまだもう少し先のことだし、これからがもっと蒸し暑くなるっていうのならそれを乗り越えていく気持ちでいる。どうあがいても、この暑さに関しては逃れられないということがわかっている。
思い出づくり、というわけではないけれど今日は出かける予定がある。星が綺麗によく見えるところへ。
一言だけ言っていいとしたら、今日が七夕だということ。そして隣にいるのは、諫火さんだということも。
「おはよう梓敦」
私が早起きなのは部活の朝練のためなのであって、決して朝から諫火さんといちゃいちゃするためではない。寧ろ、平日なんかほとんど会うことができないのはお互いが承知の上。
それなのに朝から諫火さんに出会うというのは如何なものか。会えるのは嬉しいし、声を聞くだけでも心が満たされる。でも今は朝の六時を少しまわったところだ。
「んー、シャンプー変えた? 前のもよかったけど、これもなかなかいいね」
玄関を出て数歩進み、角を曲がったところで呼び止められた。振り向くと、目の前は真っ暗に近い闇。いくら何でも日が出ているから明るいのは間違いない。何があるかを理解する前に、あたたかく柔らかな感触が梓敦の顔を覆った。それが、朝から私に会いに来た諫火さんであることに気づく
私の髪に顔を埋めて、髪の匂いをかいでいるのだろう。そんな諫火さんを手で押しのけて、顔を突き合わせる。ここのところ、私と会う度に笑顔でいてくれる諫火さん。何か心境の変化でもあったのだろうか。そういったところはいいとして、朝から会うなんていうのは偶然じゃないはずだ。
「あの、どうして、こんな時間に」
名残惜しそうに私の髪を撫でてまじまじと見つめられる。
「梓敦、今夜のご予定は? 一緒に行きたいところがあるんだけど、どうかな」
首を傾げて、訪ねられる。不覚にもかわいいと思わされるのは、計算なのか、天然なのか。
「えっ……と、今日は、部活が終わるのが七時ぐらいだから、大丈夫ですよ」
「そう、よかった。なら、またそれぐらいの時間に連絡するよ」
先ほどまでとは違い、諫火さんはするりと私から離れていく。
「あ……」
逆に名残惜しいと感じたのは、私のほうであった。
「それじゃあね」
簡単に手を振り、踵を返して彼は去っていく。見送る背は、どこか洋々としている。触れられた髪に残る温もりだけが私を縛る。離れたくない、そう一瞬でも思わされるのがとても辛い。好きだから、という単純な理由が根底にあるからかもしれないけれど。
何にしたって、誘われたのならデート以外の何物でもない。突然のお誘いだけれど今夜は気合いを。
と。
そこまで考えたところで私の目的を思い出した。何故この時間に玄関前にいるのか。のぼる朝日、犬を散歩させる近所のおばさん。さえずる小鳥たちを後目に、部活に向かわなければならないことを。
連れてこられたのは、私の住む街から少し離れた郊外の山の中。少し肌寒いと感じてしまうが、耐えられないほどではない。木々が開けている場所で、空は少しだけ曇っている。こんなところで一体何をするのかと思った矢先、諫火さんに呼ばれた。
「珈琲、大丈夫だよね」
どこから用意したのか、タンブラーを渡される。
「あ、はい、ありがとうございます」
少しじめっとした空気が流れる中、私たちは隣あって座る。地べたに座るのは行儀が悪いと家では言われてきたが、そんなことを言ってしまったら何をしても行儀が悪くなる。いや、確かに地べたに直接座るのは抵抗がある。結局は座ってしまうのだけれど。
「梓敦、こっちおいで」
ひょいと軽々持ち上げられて、諫火さんの膝の上に座ることになった。
「え……ちょっ、と、諫火さん……」
何故かとても恥ずかしく、顔が赤くなるのを感じた。
「ん? 全然重たくないけど?」
何を勘違いすればそう言えるのだろう。やはりどこかずれているのではないかと思うことがよくある。
「いえその、そうじゃなくてですね、私、この状態って、いうのは……」
うまく言えないが通じるだろうかというよりも、諫火さんが悪のりしないかというほうが気になって仕方がなかった。
「ここは僕達以外、誰も来ないよ」
それも少し違う。
「や、あの……」
私はそこまで言って、何を言ってもこの人は気にしないだろうということを思い出した。
「ああ、こうしてほしいのかな」
空いた両手で、後ろから抱きしめられるように。いつもより密着度が高い。
「っ……」
身体がビクンと跳ねそうになるのを抑え、早くなりつつある動悸を気取られないようにする。
「あはは、可愛いな梓敦は」
でも、嬉しそうに言う彼の声に私は安心させられる。それに、肌寒いのを忘れてしまうぐらいに、彼の温もりが暖かい。
「あ、ほら、見てごらん」
諫火さんの視線は空を泳いでいる。私もそれにならい、視線をあげた。
「わ……すごい」
曇っていた夜空は、晴れ間を見せた。
その晴れ間に一面の星々。学校の授業で習ったのと同じように、星々が並んでいる。その中には、天の川も見えていた。
「きれい……」
思わず声が漏れる。
「すごいでしょう? 偶然見つけたんだよね。それで、いつか君と来たいなって思ってさ」
ほら、あれがデネブ、アルタイル、そしてベガだよ――指を指しながら、どの星が何なのかを彼は教えてくれる。楽しそうな声に、私は嬉しくなる。
二人だけの空間で、いつもとは違う場所。諫火さんの部屋ではない、二人で遊びに行くところでもない。特別な場所。そう考えると、何だか胸が熱くなる。
「あ、流れ星」
二人の頭上を、一筋の流れ星が通過していく。
それは一瞬で見えなくなってしまうぐらいだったけれど、私は見逃さなかった。
「梓敦、今の流れ星におねがいできた?」
私は少し間を置いてそれに答える。
「ふふ、秘密ですよ」
楽しそうな諫火さんに、今度は私がにっこりと笑顔で答える。
私たちはそのまま、しばし闇に身を投じて空を見ていた。
その後、すっかり帰る時間が遅くなってしまって。
当面の間の夜間外出禁止をお父さんから出されそうになったのを、何とかココアをだしにして防いだのは、また別のお話。
続々々々々 少女と、
『七夕』