「おい、お茶をくれ」
リビングで一匹の犬が吠えている。
「はいはい、ちょっと待ってくださいな」
母は忙しそうにリビングと廊下を行ったり来たりしている。時々、キッチンに入って鍋の火加減を見ているようだ。
「かーさん、僕のジャージってどこに閉まったのー?」
弟が部屋から母を呼ぶ。
「タンスの一番上にあるでしょー」
しかし母は忙しそうだ。
明日から旅行に行くので、準備に忙しいのだ。
「おい、お茶はまだか」
犬がきゃんきゃんうるさい上に、お茶まで要求してくる。
今度は誰も答えなかった。
「……寂しいなこれは」
犬……いや、姿形はチワワだが、この犬はお父さんだ。
どこかの携帯電話会社よろしく、白い犬ではないが、この犬はお父さんだ。
しかもチワワと来たら、威厳も何もない。逆に言えば、威厳のあるチワワを見たことはない。
ちなみに母も弟ももちろん私も人間だ。
どこをどう間違えても犬畜生などではない。
しかし、この光景を見て誰が納得するだろうか。
ソファのクッションにでんと腰をおろして、いっつも口から舌を出し、呼吸の度にハアハア言っているチワワがいて。そのチワワが私たちの父であるとは、誰が納得するだろうか?
歩く時は異様に足数が多い。しかも早い。カツカツ音がする。フローリングの床で滑る。口臭が獣臭い。身体が小さい割には、よく食べる。餌をもらうと誰彼構わず尻尾を振る。
私たちの父は、チワワなのだ。
父曰わく、昔チワワとチクワを間違えて買ってきたことがあって私を悲しませたことがあるので、その報いだと言い張る。私は実は、どこかの実験施設で被験者に選ばれて、実験の過程で姿形を犬に変えられたのではないかと思っている。
弟は、UFOに連れ去られて、宇宙人の技術で犬の身体に脳を移植されたのだと言い張る。そのうち、私たちも同じようにされるんじゃないかと思っているらしい。
母は昔からお父さんはこうでしたとしか言わない。流石に父との付き合いが長いだけあって、考え方が違うと思った。
「おい、まゆ、散歩の時間だ。よろしく頼むぞ」
お父さんはソファから降りて、トコトコと玄関まで走っていった。
「お父さん、今日雨降りそうだけど散歩行くの?」
私が聞くと、玄関を前足の爪でかりかりしていたお父さんが振り向く。
「えっ? 雨、降るの?」
私が頷くと、お父さんは唸った。
「ううむ……よし、行ってすぐ戻れば大丈夫だろう」
結果的に行くことになってしまった。お父さんはこういう時、ダメと言うとすぐに拗ねる。人間なってな……じゃないね、犬がなってないよね。
私はリードをお父さんの首輪と背中に取り付けて、散歩にgo。
着ぐるみでも何でもない、本当に私のお父さんは犬なのだ。
「おい、早く行くぞ」
お父さんは私を見上げて言った。
はあ、とため息をついて私は歩きだす。お父さんも、私より早いスピードで歩きだした。
まず、犬が喋るってことが理解できないという方もいるだろう。
まずおかしいと誰もが思うだろう。しかし、誰もおかしいと思っていないかのように接してくる。私たちがおかしいのか、周りがおかしいのか。どちらでもよいかと思う。
「夕飯は何だろうな」
父(犬)の問いかけに私は答える。
「多分、簡単なものだろうね。明日はお家にいないしね」
父(犬。チワワ。)はわかりやすいぐらいにしゅんとした。
「そうか……」
少し可哀想か?とは思ったが、父(チワワ)はそんなことでへこたれるような犬ではない。
「あ、でもほねっこ買ってあるよ」
それまでしゅんとしていた犬の尻尾がピンと跳ね上がる。
「本当か!?本当なのか!?」
めちゃくちゃ尻尾振ってる。顔が輝いている。
「よし!帰るぞ!今すぐにだ!」
チワワが勝手に向きを変えて走り出したが。
「ぐえっ」
リードの長さが足りずに、私の腕を伸ばした長さとリードの長さで止まる。
「お前!お父さんを殺す気か!?」
チワワはきゃんきゃん吠える。
「いや、お父さん、焦りすぎだよ」
「焦ってなどおらんよ!さあ早く帰るぞ!ほねっこ食うんだ!」
明日のおやつなんだけどなと思ったが、言わずにいよう。
お父さんが犬でも、私は構わない。
こんなお父さんでも、私はお父さんが好きだからだ。