いつだって、俺たちの先を照らしていたのは太陽であり、来た道を照らしていたのは月だった。
だから俺も葵も今こうして生きているのであって、互いに愛しあうということが許された。
ただ、今はそれをとやかく言っている場合じゃないことぐらいは理解している。
脇目も振らずに走り続けなければ、この世界とも永遠にさよならをすることになる。
「はっ……!」
葵を連れてただひたすら走ること、もうどれぐらいなのかはわからない。
聞こえてくる息遣いから、かなりの体力を消耗していることが理解できるが、俺の後ろをついてくるので精一杯のようだ。元々運動が苦手な葵と、最近運動なんかしていなかった俺じゃあこれ以上の速度で走ることは無理に等しい。
遥か背後から、人の形をした黒い影が追いかけてくることさえなければ、俺たちはこうして逃げ回ることもないのに。そもそも、逃げ回るのにも、後どれぐらいの時間を必要とするのだろうか。
この大地を、どれだけ走り続ければ、タイムリミットが来るのかもわからない。それも、全部あの女のせいだ。
あのアヤカシとかいう女が原因だ。
俺らしくもない、人のせいにするだなんて、滅多にないことだけれど。
でも、こればかりはあいつが。
「ちょ、四塚……むり、もう、はしれな……」
葵が走るのをやめて、その場にへたり込む。
「く、そ……立って、頼むから、追いつかれる」
俺も息を切らせて、肩を上下させる。
互いに荒い息を吐き、呼吸を整える。
「でも、むりだよ、もうはしれない……」
弱音を吐く葵の肩を抱いて、立ち上がらせる。
「それでも、行かなきゃ駄目なんだよ」
ゆっくりと、少しずつ走ることを選んで、俺と葵は行く。
背後から、咆哮とも悲鳴ともとれる声が聞こえた。
「……なんだってんだ、あいつは……」
それは、一時間ほど前のことだ。
俺と葵が辿り着いたのは、まるで最初からそこにあったかのような、四角く長細い箱のような建物だった。
真っ白な壁で、窓も所々おかしな位置につけられた家のような建物だ。
縦に長いようで、どれくらいの高さがあるのかはわからなかった。
周囲は元々住宅地だったようで、家の崩された跡には何もないのが目立つ。
これはまるで塔ではないかと思ったが、口にはしなかった。
「……これ、何か、おかしいよね」
葵が言うのに俺も頷いた。
「ああ、何て言うんだろう、これって」
どこがどう、おかしいのかと聞かれたら、それは雰囲気としか言いようがなかった。
誰もいないのに、その窓という窓から誰かに見られている感覚があり、異様な雰囲気をその建物が放っているのも明確であった。
それを見逃すことができるのならば、俺たちはそうすべきだった。
でも、まるで何かに惹かれるようにして、その建物の扉をくぐった。
中には正面玄関があり、更にその向こうに扉があった。
その扉を更にくぐると、吹き抜けの空間に出た。
螺旋階段、とでも言うのだろうか。
その部屋の中央に、支柱のない階段があった。
まるで上ってこいと言わぬばかりの感じだ。
葵と顔を見合わせて、その階段へと向かう。
階段のところまで来て、来た道をふっと振り返った。
入ってきた入り口がどこにも見当たらない。
「入り口、どこだった、っけ……?」
不安を諸に出す葵の手を強く握り、その階段へと足を運ぶ。
一段一段をゆっくりと上っていく。
靴を通して伝わってくる感覚が気持ちの悪いもので、鉄の階段のはずなのにも関わらず、何か柔らかいものを踏んでいるような気になってくる。
葵は何も言わないが、俺の手を強く握り返してくるので、きっと同じことを思っているのだろう。
十五分ほどのぼっただろうか。
階段はどこまででも続きそうだったが、意外と終わりは早かった。
天井付近で階段はなくなり、今度は梯子がぽつんとあった。
天井から突き出るようにその梯子が存在して、落ちないようになのかどうかはわからないが、四角い穴が開いている。その中から梯子が出てきているのだ。
それを上りきり、今度は階段のあった部屋よりも小さな部屋に出た。
暗い部屋だったが、同時に明かりが点された。
周囲一面に、壁という壁に、床にも天井にも。
植物が覆い茂っていた。
その部屋の中心あたりに、蔦に覆われた箱が置かれていた。
人一人ぐらいは入れそうな箱で、それが懐かしいような、そんな感覚があった。
近づいて、その箱の正面に立つ。
俺も葵も、何も言わずにそれを見ていた。
「それはこの世界の全てを詰めた箱」
いつの間にか、俺と葵の背後に女が立っていた。
「貴方たちや私たち、そして世界のあまねく有象無象と森羅万象を、理を詰めた箱」
咄嗟に身構えて、葵を自分の背後に移動させる。
「……何だ、あんた」
「あら、別に何もしないわよ。最近の子は怖いわねぇ」
その女は一度指をパチンと鳴らした。
女の腰ほどの高さに足元の植物が伸びてくる。
それは椅子の形をとり、女はそれにそのまま腰をおろした。
「そんなにかっかしなくてもいいのに、困ったものね」
女はどこからか煙草を取り出して、それに火をつける。
「誰なんだあんた……それに、ここは、一体何なんだよ」
俺の中で、何かがざわついていた。葵を守らなければ。
「人に名乗る前にまず自分から、とか古いのよね。だから教えてあげるわ、四塚君」
名を呼ばれて驚く。
「私はアヤカシ。うちの馬鹿が、一回あなたに会ってるはずだけど、ごめんなさいね、あの子の躾は私がしたんじゃないんだけれど」
馬鹿とは誰のことだろう、誰かそんなようなやつに会っただろうか……。
「四塚、この人、何言ってるの?」
葵が小声でたずねてくる。
「や、わかんない。俺も誰のこと言ってるのかわかんないし、っていうかあの人、おかしいよ」
ふう、と煙草の煙を吐き出して、アヤカシは気だるそうに言った。
「あなたたちには、してもらいたいことがあるのよ。別に悪いことをさせようってのじゃないのよ? 人助けだと思って、ね」
どうやら俺たちに悪意はないようで、アヤカシは言葉を続けた。
「その箱ね、私じゃ開けられないの。だから、開けてほしいのだけれどどうかしら」
箱。
そう、俺たちが不思議に見つめていた箱のことだ。
箱を尻目に見ながら、アヤカシに尋ねる。
「……これを開けたら、俺たちを見逃してくれるのか」
「いえ、だから、そういうのじゃないって言ってるじゃないの……」
ため息をついて言葉を続けるアヤカシ。
「私は世界崩壊のことについても、あなたたちのことについても、あの木霊についても知っているのよ。それなのに、何であなたたちを害そうだなんて発想ができるのよ」
それを聞いて、思わず気を抜くところだった。
油断大敵である、のだが。
一度人を疑って失敗したことがあるので、それもどうなのかと思う節がある。
「……葵、どう思う?」
「うん……悪い人じゃなさそうだよ、ね」
こういう時に聞くのは、葵ではどうにも心許ないのだが、今は致し方ない。
俺は覚悟を決めることにした。
「じゃあ、開けるけど、俺たちの聞きたいことも教えてくれよ」
アヤカシはええ、と頷いた。
箱の方に振り向き、上に乗った蓋を押して開ける。
これは箱というよりは石棺だ。
蓋をどかしきって、ゴトンと蓋を床に落とした。
中から生ぬるい空気が吹き出てくる。
ゆっくりと、それを覗いた。
中には、鏡が一つあるだけだ。
「……? 何だよ、鏡だけしか入ってないじゃないか」
手を伸ばして、鏡を取ろうとする。
「駄目! それに触っちゃ駄目!」
アヤカシが言うが早いか、俺が触れるのが早いか。
指先が鏡に触れた瞬間、閃光が走った。
to be continue the next story →「それでも世界は生きているから 四塚と葵篇」
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