「長い夢だったのかな、なんて最初は思っていたんです」
薄暗い部屋で、灰色のソファに腰掛けた女性が言う。顔の半分以上が前髪で隠れていて見えないが、かろうじて口元だけはよく見えていた。窓からそよ風が吹き抜けていくが女性は気にも止めない。肩から下に流れるように伸びた髪が少し揺れるだけだ。服装は、袖のない真っ白なワンピースに、下は七分丈のジーンズを履いていた。
「それでも、あたしはここにいて、生きているんですよね」
彼女がまるで誰かに語りかけるような口調で喋っている。会話こそ交わされることはないが、その発言の一つ一つをきちんと書き留めている男の姿があった。このご時世にきっちりとしたスーツ姿で、まるでそれ以外着たことのないような雰囲気の男だった。背丈は中肉中背で、年の頃は20代後半といったぐらいであろうか。
「でも、あたしが見たことっていうのはほんの些細なことでしかない。世界の一部だったんですよね、それって」
男は口を開くかどうか悩んだ末に、一言だけ呟いた。
「それが、世界再興を目指すあなた達の答えなんですか?」
手を止めて自らの正面に座る女性に訪ねた。
「答え、ですか……いえ、あたしたちが望んだものは」
女性は窓の外を見て言った。
「人々が、幸せであり苦しむことのない世界ですよ」
どこか落ち着いた声色で、窓の外では夕陽が落ちていくのが見えた。
夕陽を背にした記者が帰路を往く。
初めは世界の崩壊なんてこれっぽっちも信じちゃいなかった。その日が実際に来るまでは。
記者、十野宮直哉はその日、前日からの仕事を徹夜でこなしていた。あくる日が十月四日だということには何の関心もなかった。まさか世界が崩壊するだなんて、信じてはいなかったのだ。
明け方の四時をまわったころに、やっと仕事が一段落ついて、彼は帰路についた。時間も時間で、あろうことかタクシーの一台すらつかまらない。割り切って自宅まで歩いてしまおうと決意した。幸いにも明日という名の今日、十月四日は有給をとってある。彼の帰りを待つペットの虹太(こうた 神奈川犬 ♂ 一歳と三カ月)と一日中戯れる予定だ。
とぼとぼと明け方の街を行く。新聞配達のおじさんや、早起きな爺さん婆さんとすれ違っていく。明け方の空は段々と明るみを増している。世界崩壊の知らせが入ってから、街からは人の気配が少しずつ消えていった。現に十野宮の会社でも社員の半数以上が辞めていった。
テレビやマスコミは肯定派と否定派、この騒ぎに便乗し、世界崩壊後を生き延びるためにといくつものカルト宗教が名をあげた宗教派などを根ほり葉ほり、好き勝手に捏造までして祭り上げた。各地で起こる暴動や国からの亡命をしてくる人々も堪えない上に、誰も何が起こるのかを把握していない節があった。
十野宮はどちらかと言えば否定派の人間であり、あまりの人々の感化のされように世界中で自分一人を貶めようといているのではないかと思ったほどであった。
しかしそれもこの日、十月四日に覆されることとなる。
会社から自宅までは歩いても40分強の道程である。途中コンビニに寄って、帰宅できたのはもうあまり猶予もない午前五時五分前であった。マンションの十階に住む十野宮は、エレベーターよりも階段を使うのが日課であり、いつもどおりの階段での移動を行った。腰にくるものがあるのではないかと友人や同僚には言われるが、大体がそんなことはないと返すのみだ。
自分の部屋の前にたどり着く。玄関を開けようとし、向こう側に気配を感じて一度息をつく。
「虹太、おすわり」
言いながら玄関を開けると、ドアマットの上に優雅に座る虹太の姿を確認できた。おとなしく凛々しくそこに佇む姿に、十野宮は笑みをこぼす。
「いい子にしてたかー」
にやけた顔のまま虹太の頭を優しく撫でる。おとなしくしてはいるが、尻尾は千切れんばかりに振られている。いつもと変わらない情景だった。靴を脱いで部屋にあがる。まずはシャワーを浴びて、虹太と戯れてそれから晩酌だ。
ふと、腕時計に視線がいく。
四時五九分、五十秒をさしている。
もうこんな時間か、と部屋のカーテンを開けた。窓から朝日が差し込み、いつもと同じ朝が来る。
いや、来るはずだった。
何が起きたのか彼には理解できなかった。眩い光が辺り一面を包み込んで、視界は白く染まっていった。目が眩み、開けていられなくなる。
それは思いもよらないほどの感覚だった。瞳を開けられるようになるまで、どれぐらいの時間を要したのかは彼にはわからない。少なくとも彼の中の感覚ではとても長い間だったと記憶されたようだ。
視界に飛び込んできた風景に、自身の目を疑ってしまった。見慣れた風景が全て、廃墟のように見える。いや、実際に廃墟になったとでも言うべきだろうか。昨日までまばらにビルと住宅の見えていた窓の外は、この一瞬で姿形を変えていた。まるでゴーストタウンだ。
「なんだよ、これ……」
しっくり来ない、といったレベルではない。変わり果てた街並みに驚きを隠すことができないでいる。しかし、何かが起きたことは事実である。
揺れた訳ではないから地震などではない。衝撃があった訳でもないから隕石という可能性もないだろう。実はテレビ局と彼の会社が結託して、彼を驚かすドッキリか何かかと思ったようだが、どれもこれも違うようだ。
虹太が彼の足元にすり寄る。心なしか怯えているように見える。内心、ものすごく焦っているのだろう。まず有り得ないことだからだ。ベランダに出て、外を見回す。風が吹き、砂埃が舞い上がる。人の気配もしない。
「は、はは……あっ、テレビ……」
急に思いついたかのようにテレビのようにもとに向かう。電源を入れて、チャンネルを変えていく。臨時ニュースぐらいやっているかと思ったのだが、どのチャンネルも砂嵐ばかりだ。彼を心配した虹太が足元をうろうろしている。
そこで彼はある単語を思い出した。
「世界、崩壊……」
まさか。信じていないのに、そんなことがあるもんか。自分ではそう思っていたのにも関わらず。しかしそれは関係のないことだったようだ。
目の当たりにした出来事を否定するほど、彼は無能ではなかった。携帯の電波はないようだ。一本もアンテナが立っていない。唯一の連絡手段がなくなったということを理解し、ソファに座りこんだ。深々とソファに沈む身体を落ち着けて、瞳を閉じる。虹太がソファによじ登ってきて、顔を舐めた。
「ああ……虹太、とりあえず寝たい。何ていうか、起きてから考えさせてほしい」
その言葉を理解したのか、虹太はソファから降りてその場に寝転んだ。
次に目が覚めた時、これがもし夢だとしたら。
そう理想を描いているうちに彼は夢の淵へと旅立った。
彼が目覚めた時には既に太陽は上りきっていた。何食わぬ顔をした太陽が大地を燦々と照らしている。
崩れかけたビルも、人気のない道も、すべてを照らしている。その健気さにどうかしているんじゃないかと思ってしまうぐらいだった。
まだ眠っている虹太を後目に、携帯の電波が復活していないかと確認する。おそるおそる携帯を開く。
……やはりアンテナは一本も立っていない。圏外表示は消えない。しかも時間はとうに昼の十二時をまわっている。
とりあえず今起きていることを把握するべく、彼は外出することにした。行き先はまず、腹ごしらえのできるところだ。
困ったことに、近所のコンビニもスーパーも、誰もかれもがいない。その上ファミレスも定食屋も、人っ子一人いないのだ。仕方がないのでコンビニで簡単な栄養のありそうなものを調達してきた。これでは腹が保たないだろうが、ないよりはマシだ。
それらを口に頬張ってから、まだ眠気の覚めない頭でどうするかを考えていく。きっとこのままじゃ国は機能しない。自分以外にも生き残りがいるはず、そいつに出会うことができれば、事態は変わる。いいか悪いかは別として。まあなんとかなるかなあ……とはいかないから、きちんと考えて行動しよう。
人がいないだけの、寂れた街という感覚だった。
自分以外の人間に会うこともない、動物だって、いない。
この世界で果たして、人が生きていくことができるのだろうか。
あまりどこか遠くへ行ってしまうと家に置いてきた虹太を困らせてしまう。知っている道を通ってきたが、流石に一度家に戻ることにした。
どれだけ歩いていたのかはわからないが、自分の住む街の状況は把握できた。
きっと、自分以外にも誰か生きているひとたちがいるはずだ。
そうして記者は、生き残っている人を探すための生活を始めた。
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