ここは終焉の始まり。
人の死について考える。
そう簡単に人は死なないという人と、人はすぐに死んでしまうという人がいる。
どちらも解であり、どちらも否であると思う。
どちらが正しいとも、どちらが間違っているとも言えない。
病気で死ぬ人もいれば、病気を克服して生きている人もいる。
怪我で死ぬ人もいれば、怪我を治して生きている人もいる。
年を重ねて死ぬ人もいれば、若くして死ぬ人もいる。
身体が動くけれど死んでしまう人もいるし、身体が動かなくても死んでしまう人がいる。
人間の身体はとても脆く、やわである。
肌を爪でひっかけば、傷がつく。傷がつかなくても、ひっかかれれば痛みを感じる。
どこかを殴られれば勿論痛いだろう。
打ち所が悪ければ死んでしまう。
原因不明で死ぬ人もいる。
意識がなくなった状態で死ぬ人もいる。
仕事中に倒れて死ぬ人もいる。
ただ、それまでの時間をその人たちは生きてきたのだ。
それがその人にとって充分な時間だったのかどうかはわからない。
悔しい思いを残して死ぬ人もいれば、満足したと言って死ぬ人もいる。
自分で命を絶ち、死ぬ人もいる。
死にたくないともがく人もいる。
最期は、楽しかったよ、この人生って言って死ねるといいなって思う。
だからこそ、これからの幸せのために全力を注ぐ。
今までが幸せじゃなかったなんて言わない。
もっと幸せになろうと努力するのが、今だからだ。
人が死んだら、周りの人が悲しむだろう。
爺ちゃんの時も、母の時もそうだった。
どちらも俺はよく泣いたことを覚えている。
二人とも、大好きだったからだ。
大好きな人たちが死ぬ時は、とても辛い。
でもいつか別れは来るのだ。
それがいつになるかはわからないけれど。
辛いのは、その人との思い出があるからだ。
その人に何かをもらったからじゃないかと思うのだ。
嫁が、自分が死んだら雄太はどんなふうに泣くのだろうか、みたいなことを考えて、悲しくなったって。
それはまだ、当分先のことだから、今はまだ考えなくていいよwって俺は答えた。
でも、自分でも考えた。
歳をとって、二人で生活をしていって。
嫁が死んだら、俺はひどく泣くだろうな。
周囲が見ていられないほどに落ち込んでしまうだろう。
三日三晩泣き続けるかもしれないな。
あながちありえそうだ。
誰よりも俺を愛してくれた、誰よりも俺が愛した大事な人が死んだら、俺は何もできなくなるんじゃないか。
どちらかといえば、俺は人は簡単に死んでしまうという考え方によっている。
だからこそ、不安は尽きないけれど。
いつ何が起こるかわからない時代だからこそ、少しは考えておかないといけないのかも。
ま、すぐに死ぬわけじゃないから、ね。
どうか、安らかに眠られますように。
今朝は暑くて起きてまだもう少し寝れる時間だったから、二度寝した。
そしたらもー、嫌な夢見た。
ひどい、あの夢ひどい。
もう出てくるなよおまえー、笑ってんじゃねーよー、って。
朝からそう思うぐらい。
もうね、勘弁だよ。
いくら記憶のデフラグとは言っても、夢ぐらいはもう少しいい夢みさせろよ。
あ、でも現実のが幸せだからいいや。
昨日落とした水筒は見当たらず。
XELVISを単巧堂に預けました。
ヘッドライトが点かない問題で、山田氏でもわからんと匙を投げたものでして。
で、預かりじゃないとやれる時間がないからと言われて預けることに。
少しのあいだおわかれだな、と挨拶をして、山田氏のセロー借りました。
一年ぶりぐらいのセローさんです。緊張しますね。
これで林道攻めにいけるぜひゃっはー!
安全運転でいきます。
今日も平和に一日終わり。
ひょっとしたら休日出勤かかるかもしれないので、戸惑いつつも。
→ そのうち登山。小倉トーストもある。
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