それは一羽の鳥だった。
ひょっとしたら私の勘違いなのかもしれぬ。
否、紛れもなく鳥だったのだあれは。
私はそれが鳥だと知っていた。
そう知っていたにも関わらず、私はそのことに対して見て見ぬ振りをしたのだ。
ただの鳥だというのに。
だのに、何故――
何故私はあの娘に惚れてしまったのだろうか。
梅の花が芽吹き、嵐が訪れて春が目前を迎えたころだったように思う。私は今でも、あの頃を、あの日々をまるで昨日のように思い出せる。
齢の頃は一九で、私は会社勤めをするのが嫌で学生という道に逃げ出した時分であった。
今は立派なアーケードのある大須の商店街にて、ふらふらと歩いていた。
ちょうど昼を少し過ぎたあたりで、飲食店にはまばらに人の影が残っている。皆、仕事に身をやつしているのだろう、その時の私にはわからなかった。この近辺で大してうまい飯が食えるわけでもないのだが、私は腹をすかせていた。
手頃な店に入り昼食を済ませた私は、仁王門通りを抜けて大須観音を目指した。少し歩いてやけに子供が多いことに気づいた。ああ、そういえば今日は縁日だったか。子供たちの声が背後から真横から斜め前からと縦横無尽に駆け巡っていく。
不思議とそれらを鬱陶しいとは思うことなく、私の足は進んでいく。大須観音はすぐそこだった。
いつもなら人の少ない砂利のある境内に無数の出店が並んでいた。林檎飴の屋台に、金魚掬いの店。骨董を扱う店では、腹の出た目つきの際どい店主が客と大声で話している。バナナのたたき売りをしている男は、どこかでふうてんのと呼ばれていそうな容姿をしていた。
少し外れたところに紙芝居屋がおり、子供たちはそれをおとなしく見ている。先ほど昼食をとったところだが、焼きそばのいいにおいに食欲をそそられた。一瞬、一体私は何をしにきたのだろうと考えてしまった。
本殿の階段をあがる手前に、奇妙なテントがあった。私はそのテントが気になってしまい、中を覗いた。
「いらっしゃいませ」
中には顔の右半分を包帯でぐるぐる巻きにした男が、テントの奥に座っていた。怪しい雰囲気を醸す店主を、ちらちらと横目で見ながら。
店主の前にはいくつかの商品と思しきものが雑然と並べられていた。西洋の火打ち石やら、怪しい絵柄の描かれた絵札の一式。長机が置かれており、奇妙な仮面が立ち並び、木彫りの像さえある。その長机の端に置かれた鳥籠が、おかしな雰囲気を更におかしくしていた。
「や、すまない、少し気になったもので」
私はそう言ってテントを出ようとした。
その時だ。私とすれ違う形で、一羽の鳥がテント内に入ってきた。
チチチと鳴いたかと思えば、テントの中を飛び回っている。
「すみませんが、そこの鳥籠の扉を開けてもらえませんか」
店主は言う。
「私は足が悪くて、立つのにも一苦労するのです」
仕方ない、ならばと思い私は鳥籠の扉を開けた。
鳥は私の周りを三度回って、籠の中に入っていく。
鳥は喉が乾いていたのか、籠の中の水差しに頭を突っ込んでいた。
それを見届けてテントを出る。
「……それじゃ、私はこれで」
私はテントの中に向かって声をかけて、階段を上がった。
「またお会いしましょう」と店主が言ったのを、私は聞くことができなかった。
ドンドンドンパフパフパフ、と音を鳴らしてちんどん屋が通りすぎていく。それを子どもたちが追いかけていく。
西日が綺麗だなと感じたころにはもう夕暮れで、私は家路につくことにした。
猫がにゃあと鳴き、犬がワンワンと吠えている。私の住む町は住人の数こそ少ないが、活気があった。祭りがあれば地域で盛り上がり、誰かが死ぬと地域で悲しむ。
泥棒が出ればこぞって犯人探しに精を出すし、隣近所と言わず、町の端とその逆の端に住んでいても仲がよい。
町が一つとなって団結していた。
大人が知らない子どもはいないし、子どもが知らない大人もいなかった。
私は生まれた時からこの町で育ち、この町と共に生きてきた。
だから、どうしたと言うのだろうか。私は私の知るこの町から出ていきたくないだけなのだ。私を育て、私をつくりだしたこの町を。
未練がないと言えば嘘になるだろう。しかし、未練だけに縛られているわけでもない。
不十分なのだ、人として。私は誰かのために何かをしてやりたいという感情が欠けているのだ。医者に言われたわけではないが、きっとそうなのだ。そうに決まっている。
闇雲に何かを探すわけにもいかずに、ずっとここに留まっている。
誰も私がそうであることに気づいていないし、この先も気づきはしないだろう。
いつしか私は忘れ去られて。
にゃあお、と鳴き声が聞こえて私の思考は一時的に止まった。
もう一度にゃあおと聞こえて、私は辺りを見回す。
道の真ん中で地面を這う鳥と、それを狙う猫が見えた。
猫には見覚えがあって、この町のボス的な存在だったと思う。戯れに鳥を虐めにかかるようなやつではないはずだ。
鳥は猫に気づいていない。あのままでは食われてしまう。
足元に転がる小石を猫目掛けて投げる。
しかしそれは距離を違えてしまって当たらなかった。
だが、鳥を驚かすには十分だったみたいだ。
今にも飛びかかろうとしていた猫の視線が音のする方へと向いて、鳥は羽ばたいて飛んでいった。
猫が振り返った時にはもう遅く、はるか上空を鳥は飛んでいた。
これで間違えることさえなければ、あの鳥は猫に襲われることはないだろう。
名残惜しそうに空を見上げる猫のもとへ歩いていくと、私に気づいてにゃあと声をあげた。
「にゃあじゃないよ、君は」
足にすりよる猫を余所に空を見上げる。
もう鳥の姿はなかった。