「ご飯、いっぱい炊いてありますんで、おかわりがございましたら仰ってくださいね」
年寄りでもない、若すぎるわけでもない。どちらかといえばまだ若い、四十もいっていないだろう、どこか艶がある。そんな女将さんの言葉を受けて、食事に箸をつけた。探しはしたが、やはり旅館なんぞどこも開いておらず途方にくれていたころに初めて人を見つけた。
畑から帰ってきたというところで、ひょっとしたら泊めてくれるんじゃないかって甘い期待を胸に話かけた。
結果がこれ。実は民宿の女将さんだという。
「だったら、うちに来てくださいな」
にっこりと微笑む彼女の名は、千鶴さんというらしい。
俺たちは二つ返事で答え、千鶴さんについていった。わかってんだ。千鶴さんの微笑む顔に陰りがさしていたのも。彼女の持っている袋から、見たこともない鳥の頭が出ていたのも。よく見えなかったけれど、着物の胸元から覗いていた入れ墨も。だから尚更、引くことができなかった。たとえ何が起きようとも。
「あ、このお漬け物おいしい」
「うちで漬けてるんですよ、それ」
「そうなんですか?あ、こっちの煮物もおいしい」
「それはですね…」
姉と千鶴さんの会話を余所に、俺は例の洞窟の話を聞こうと思っていた。
どのタイミングで声をかけようか迷うところではあるが…。
「ねえねえ、千鶴さんって美人よね」
いつの間にか会話を終えたらしい姉が肘で小突いてきた。
「あ、うん、確かに綺麗d」
わき腹に姉の肘が打ち込まれて俺は会話を無理やり中断させられる。
「っ…姉…ちゃん…」
「あら、どうなさいました…?」
咳き込む俺に、心配そうに声をかけたのは千鶴さんだった。
「何でもないんですよぉ。ね?」
姉が答えて俺に聞く。真犯人はあんたじゃないか。これが彼女とかだったらケンカになるだろうと俺は思う。
「さいですか…そういえばお二人は、恋人同士…には見えませんけど、こちらなは何用で?」
見えないのかよ、と姉が突っ込みたそうな顔をしているが俺は気にしなかった。
「ええ、観光で来たんですよ」
何とか持ち直して、声の張りを確認しながら俺は言う。
「観光…したら、下の鬼隠洞にですか」
千鶴さんの瞳が怪しく光った。…はずもなく、眉一つ動かすことなく言った。
「はい。先の世界崩壊のニュースは聞いているでしょう。だから俺と姉ちゃん、二人で最後に旅行でもって」
「仲がよろしいんですね」
「よく言われるんですけど、この子照れちゃうんですよいつも。姉ちゃんって言ってますけど、本当は恋人同士なんです」
姉の間髪入れずの言葉に思いきりお茶を拭く。
あらあらと千鶴さんはタオルを取りにいってくれた。
「ちょっと、汚いわよ」
「…誰のせいだよ。恋人同士って何だよ姉ちゃん」
「そのまんまの意味よん」
ニヤニヤと笑って姉は俺の頭を撫でる。他人に髪を触られるのは嫌だが、姉ともなればそれは別。しかし、今はそれも何だか嫌で、無理やり振り払った。
「な…拗ねちゃったの?」
「…」
俺は答えない。
「かわいいなあもう…」
それでも答えない。
「はい、タオル使ってくださいな」
千鶴さんが戻ってきてタオルを渡してくれた。
それからは、姉とは一言も会話をすることなく、湯浴みをさせてもらって早々に床につくつもりでいた。
月が綺麗だった。千鶴さんの経営する民宿、千鶴さんの生家だというこの家は、何度かの増改築を済ませているらしくとても広い。
鬼隠洞の話は聞き損ねたが、また明日でもいいだろう。
一つ、失敗したことと言えば。
姉にからかわれたぐらいで機嫌を損ねるのもいかがなものか。
俺と姉の部屋は隣同士であり、どちらの部屋からも廊下に出れば窓があり、外の景色がよく見えた。他の家より、高台のところにあるせいか、余計に景色が見える。鬼隠洞もまた、大体の位置が見えていた。
障子を閉めて電気を消した。月の明かりだけが部屋を照らした。
障子を少しだけ開けて、月を楽しむ。ただ見ているだけではあるが、窓から差す月明かりに見とれた。仰向けに寝転んだ状態で、空を見上げていた。すると人影、そのシルエットから千鶴さんだということがわかる。何か用かなと障子越しに視線をあげて驚く。
頭に、左右対になるぐらいの位置に二本の突起がある。
「起きて、おいでですか」
千鶴さんの声だ。
「は、はい…」
「私、実はお客さんに話してないことがありまして――」
「――」
ゴクリと唾を飲む。
「実は私――」