「走るなよ、危ないから」
人ごみの中を縫うようにして行くその背中に向かって声をかける。少し周りの声量が気になる。
「早くしないとなくなっちゃうよ、お昼なくてもいいの?」
一応立ち止まってはくれたものの、彼女は再び動きだす。
「まあ、それは嫌だけどな」
人で溢れる廊下を行く彼女の背中はすぐに見えなくなった。
ゆっくり行けばいいかと、彼女が消えた方へ歩いていく。春にしては少し暑い、そんな四月のある日の出来事。
現実が、日常から非日常に限りなく近い現実に変わりいくのを、彼と彼女は目の当たりにする。
昼飯時にもなると、学内でも一つしかない購買に並ぶ人の列はまさしく長蛇の列となる。出遅れれば狙っていた食物はおろか、何も買えずに昼休みを終えてしまうケースもある。
あまりにも人気が高いために、午前の授業終了と同時に教室から駆け出す輩もいると聞く。
まさか自分のクラスにもいるとは思わなかったが。
大して美味いというわけでもなかったりする。
「なあ、明日暇?」
少し離れたところで大の字に寝そべっている彼女に問いかける。
「あしたー?」
「そ、明日。久々にどっか出かけよう」
「ん…あたし、ハイキングがいいな」
ハイキング、か。
「よし、じゃあ決まりな」
彼は笑って答えた。
彼女も笑っていた。
午後の予鈴の鐘が鳴った。
「じゃー、行ってきまーす」
彼女は玄関先まで見送りに来た母親にそう挨拶して彼の運転する車に乗り込んだ。
「しゅっぱーつ」
そんな彼女の子供っぽい言動や仕草が、彼はひどく気に入っていた。
「ま、ちょっと曇ってるけど天気予報じゃ晴れるって言ってたから大丈夫だろ」
軽快に車は走り出す。
「なんとっ!あたしは今日、お弁当をつくってきましたっ」
じゃーん、と、口で言いながら、カバンの中から三段程に重ねられたお重を出す。
「おー、流石俺の嫁、気がきくね」
冗談混じりに彼は言う。
「へへっ…って何よその俺の嫁って」
拾わなくてもいい言葉を彼女はついばんだ。
「いやいや、まんざらでもないようですが」
ニヤニヤしながら彼が言うと、彼女は気兼ねもなしに言いのけた。
「べっつにー。言っとくけどあたし結婚願望ありませんからー」
「はは、何言ってんだか」
彼女がボソッと「…君が真剣なら考えなくもないけどさ」と言ったのは、彼の耳には届かない。
そんなやりとりをしながら、車は目的地を目指していた。
そんなに深い山じゃなかった。ハイキングで有名で、休みとなれば大勢の人が集う場所だ。山の天気は変わりやすいと言うが、これほどまでに変わるだなんて思ってもみなかったと彼は心の中でつびやく。
天気予報は快晴を示す言葉を述べていたが、今の天気は曇天。まるで空に泥を零したような色をしていた。
「もう帰ろうか」
彼が言うが、彼女は聞く耳を持たない。
「まだ大丈夫でしょ。それに、お昼食べてないよまだ」
彼より先を行く彼女は、何もないかのように歩みを進める。
しかし今時の若者にしてはやけに活発というか、まさかハイキングをデートに選ぶなんてことはしないだろうに。
「ちょっと、待てって」
彼女は振り返り、彼を見て微笑む。
何か重たい空気が流れて、彼は立ち止まった。
空は雷を呼びはじめていた。
「どうしたの、早く行こうよ」
彼女は彼を急かすように言う。
「いや、駄目だ、行かない」
彼女の向こうを見ていた彼が、そう言った。
彼は彼女の腕を引いて山を降りることにした。
「やだ、離して!」
彼女は暴れだして、彼の腕を振り払おうとする。
「駄目だ。お前、あれが見えないのか?」
彼は彼女がいた先を指さした。
「あれ、って……何よ、そんなこと言っても」
「いいから帰るんだ!」
彼はものすごい剣幕で怒鳴る。彼女はしぶしぶそれに同意した。
車に着いてすぐに、二人は大雨に降られた。あのまま山を登っていれば、雨にやられていただろう。
帰れなくなる前に戻ってこれたのが幸いだったと彼は思っていた。
「……」
ふくれっ面で食べ損ねたお弁当を抱えている彼女。何も言わずにただ、山の方を見ていた。
「また、天気のいい日に来ような」
彼はそう言って彼女を諭す。
彼女は何も言わないが、小さく頷いた。
果たして。
彼が彼女の向こうに見たのは何だったのか。
何故彼女は山を登っていこうとしていたのか。
それはいつか、誰かが語るであろう話の一部に過ぎない。
もし山の主が、いたのだとしたら。
彼女は取り込まれてしまうところだったのだろうか。