「……怒らないの?」
不安げな声色で、彼女は問いかけた。
「怒るも何も、何か怒られるようなことしたの?」
反応したのは一人の男だった。作業中だった男に、覇気のない声で問い返されて彼女は戸惑う。視線が落ちて彼女は口ごもる。頭上には蒼き流転の空が広がっている。
少しの逡巡の後に彼女は答えた。
「その、私にはわからないんです。多分、怒られることだと、思う」
彼女が思うと言ったのには訳がある。まずありえないことではあるが、彼女は人の形をとってはいるが人ではない。
人としての生活よりも物体としての生活のほうが長かったが故に、人の生活を知ってはいるが、人の感情というものがわからないのだ。
「そっか」
男は軽く受け流して、していた作業を再開する。
「そっかって……貴方は、貴方は私のマスターなのに、そんな答え方があるんですか……?」
わなわなと肩を震わす彼女を見て、男は持っていた工具を置いた。
「ああ、落ち着きなさい。別に怒っているわけじゃないと言っているだろう」
蝉が鳴いて、川が流れていく。屋根のある場所ではあるが、二人が今いるのは屋外である。時間も太陽が頭上に来る頃合いだった。
「でも、マスター……」
悲しそうな顔をして彼女は男を見つめる。どこかで子供のはしゃぐ声が聞こえる。
「わからん奴だな」
男はため息をつき、彼女の手を引いて歩き出した。
「マスター、どこに」
「おとなしくしてなさい」
彼女の言葉を遮り、男は山のほうへと向かって歩いていく。時折すれ違う人に挨拶をしたり、川で遊ぶ子供を眺めたり。男は楽しそうに笑っていたが、彼女のほうはあまり表情を変えなかった。
「さて、ここなら涼しいだろう」
たどり着いた先は山の中も山の中、人の足でも来るのが困難だと思われるような沢。人の手が全く加えられていないところだった。木々に囲まれていて、鳥が囁き蝉が鳴く。日光もそんなに当たらないような場所だ。
「ほら、座りな」
男は突出した岩の上に座り込み、彼女に横に座るよう促した。
「君がしたことについて、俺が怒るとでも思ったのか」
彼女はこくんと頷く。長い黒髪が風に吹かれて、男の頬をくすぐった。
「まあ普通はそうだわな」
男はケロッとした顔で言った。
「な……なら、私は怒られても」
彼女の口に指を当て、男は言う。
「怒らないとしたら、とんでもないやつか、若しくはよっぽどの馬鹿だろうな……ま、俺なんか後者だと思うがね」
そう言いのけた男に対して、彼女は口を開いた。
「……マスターは、どちらでもありませんよ」
それを聞いた途端、男の顔がにやける。
「あはは、君はおかしなことを言う」
俺ほどの馬鹿はおらんよ――男は言って彼女の肩を抱く。
彼女の身体は一瞬びくんと跳ねたが、触れ合った肌の心地よさに安堵したのか彼女は抵抗しなかった。
「俺はな、まず怒らないんだ。知ってるだろ?」
聞かれて彼女は少しだけ頷いた。
「今回、君がしたことってのは、本来ならば俺がきちんと怒ってやらんといかんのかもしらん。だがな、君は俺以外に知り合いがおらんだろう」
それは事実だったが彼女は反応しなかった。
「だからまずは、俺が怒らねばならんのを置いてだな、俺が君を許してやるんだ」
水面を見つめていた彼女はそこでやっと顔をあげた。視線の先には、男の横顔。
「な、俺が君を信じてやらんでどうするんだ? 許してやらんと、な」
微笑みながら男は言った。まるで太陽のように眩しい笑顔だった。
「……はい」
彼女はまた視線を落として、更に男にその身を寄せた。
「よし、わかったなら陽が落ちるより前に帰ろうか。山は怖いからなあ」
男は膝をはらって立ち上がる。彼女もそれにならい、二人は来た道を戻った。
「そういえばマスター、さっきしていたのは何だったんですか?」
「さっきの? ああ、メインジェットの交換だよ」
「……また、早くするんですか」
冷めた声色で彼女は言う。何度目のことになるかはわからないが、彼女はうなだれた。
「や、今回はそうじゃないよ。燃費計算と調子を考慮した結果、前回よりも一つ下げた方がいいって……って、先行くなよ!」
男が喋っている間に、彼女は先を歩いていってしまっていた。
「置いていきますよ、マスター」
くすりと笑う彼女に追いつこうとする男とそれを待つ彼女。
夏の昼下がり、人里離れたこの山で。
バイクを愛した男と、愛された彼女の話。
特別の――Xtra
元気づける――Elate
訪問者――Visitor
XELVIS