それはパンドラの箱だったんだ。
箱の中には、ただひとつ。
手鏡が置かれていただけだった。
それに惹かれる心を抑えきれずに、俺は手を伸ばす。
「……? 何だよ、鏡だけしか入ってないじゃないか」
手を伸ばして、鏡を取ろうとする。
「駄目! それに触っちゃ駄目!」
アヤカシが言うが早いか、俺が触れるのが早いか。
指先が鏡に触れた瞬間、閃光が走った。
咄嗟に鏡から退き、鏡を手放した。
目が眩むほどの光に俺も葵も身じろぎひとつできずにいた。
一瞬で閃光は止み、辺りは静寂を取り戻した。
「……駄目だって、言ったのに」
アヤカシが消え入りそうな声で言う。
「もう私の手には負えなくなってしまったわ。あなたたちが、どうにかするしかない」
どこか悲しそうな顔で、アヤカシは言う。
「何のことを、言っているんだ、一体」
俺の言葉に、アヤカシは答えない。
「それじゃ、また後でね」
そう言ってアヤカシは姿を消した。
それに驚く間もなく、箱の方から聞こえてきた音があった。
「何、今の……」
それは箱の中から聞こえてくる。
鏡しかないはずの、箱の中から。
何かが暴れる音が聞こえてくるのだ。
葵の手をとり、一歩ずつ後ずさる。
「……」
物言わぬ、影が箱の中から這い出てきた。
本能と言えばいいのか、それとも。
俺も葵も、それが危ないものだと気づいたのには違いがなかった。
その影が立ち上がる前に葵の手をひいてそこから逃げ出した。
それが、つい先ほどのことだった。
この場所にどれだけの空間面積があるのか、皆目見当もつかないぐらいだ。
どれだけ走ったのかもわからないうちに、とうとう壁際へとたどり着いてしまった。
「そ、んな……」
その場から動くことができずに、俺たちは倒れこむ。
「くそ……このままじゃ、捕まる……」
絶望が俺たちを襲う。
逃げ切ることができないとわかった今、俺たちにはどうすることもできなくなった。
ヒタリ、ヒタリと足音が近づいてくる。
その足音に耳を澄ませ振り向く。
影はすぐそこまで迫ってきていた。
ゆっくりと影は近づいてきて、俺たちの前で止まった。
影だけなのにもかかわらず、実体があるように見えてしまう。
その影の大きさから、俺よりも背の高いのだとわかり、それが身の危険を更にかんじさせていた。
背後で震える葵を尻目に、その影と対峙した。
影だけだから何をするのかがわからない。
逆に言えば、影だけだから何もしないだろうという思いもあるが、今ここでそれが通用するかどうかは別の問題だ。
そう、例えばその影の中から何かが出てくるだなんてことがあるかもしれないのだ。
何とも言えぬ恐怖感が俺たちに纏わりつく。
絶体絶命とは、このことだろうか。
影が一瞬、ゆらいだ時。
「……君は本当、変わらないのだね」
影のあたりから声が聞こえてきた。
「……その、声」
俺も、葵もその声には聞き覚えがあった。
「そんな、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしなくとm、いいじゃないですか」
その声は、急に別の声に変わった。
しかしその声もまた、聞き覚えのある声だった。
影が発したのは、あの二人の声。
四塚の友人であり、理解者であり、そして殺人鬼であった二人。
斎原兄妹の声だった。
to be continue the next story →「それでも世界は生きているから 四塚と葵篇」
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